--------------------------------------------------------------------------- ※音声本編から約一年前の出来事を綴った、エリス視点の小説です。 ※音声本編のネタバレを含んでいます。音声を最後まで聴いた後でお読みください。 --------------------------------------------------------------------------- ■■■1■■■  空気を入れ換える為に窓を開けたらミミズクが飛び込んできてファッサファッサと部屋の中を荒らし回ったあげく私のポークソテーを掴んでファッサファッサと飛び去っていった。床に落下したボウルがサラダを撒き散らしながら回転している。  私は不埒で不行儀なミミズクを撲殺して羽をもいでソテーにしてやりたい衝動に駆られた。しかし当のミミズクは既にこの場に居らず、これ以上ミミズクへの怒りを募らせたところで最早どうしようもないので、私はとにかく怒りを鎮めることに専念した。  今起こった事故は私に原因があるだろうか。私は頭の中で状況を整理する。  食事をとるべく席についた私は、部屋の空気が淀んでいることに気付いて窓を開けた。食事という行為において、嗅覚が担う役割は非常に大きい。嗅覚に異常があれば食事の楽しみが大幅に損なわれてしまう。従って、食前に部屋の空気が淀んでいることに気付いた私が窓を開けるという行為に及んだのは至極当然であり、先程の事故に関して私に非はない。発生する確率が著しく低い事故をいちいち懸念していては、時間と労力をいたずらに浪費してしまい、日常生活もままならない状況に陥ってしまう。あのような特異な事故に限っては、おいそれと防げてしまうような人間の方が異常なのだ。  そもそも、音もなく家の中に飛び込んでくるミミズクからして異常だ。鳥類ならば鳥類らしく、バサバサと激しく羽音を鳴らして飛び込んでくるべきだ。よしんばミミズクという種族に羽音を鳴らさないような特徴があったとしても、その特徴を人間界に周知していないミミズクが悪い。ミミズクの努力が足りない。この家が森の中に建っていることを差し引いても、ミミズクが全面的に悪い。ミミズク死すべし。  私はどこからどう見ても被害者であるが、寛容な被害者である。だから、本来全ての責任を負うべきミミズクに情けをかけて見逃してやるし、散らかった部屋の掃除も私が肩代わりしてやる。もしミミズクに私の気遣いを理解できるだけの知能があれば、いまごろ体中の体液を垂れ流しながら繰り返し感謝の言葉を述べていただろう。  そんなことを考えながら散らかった部屋を片付けていると、盛大に腹が鳴った。  今度あのミミズクを見かけたら必ず殺す。  そして後日、再びミミズクが部屋に侵入した。ほうきを振り回して撲殺を試みるが、ミミズクは忌々しい回避能力を発揮し、無傷のまま飛び去っていった。ミミズクは去り際、部屋の中に瀕死のネズミを落としていった。完全なる嫌がらせなり。あれが先日のミミズクと同一のミミズクかどうかは定かではないが、そんなことはどうでもいい。いずれにしろ、ミミズクはどいつもこいつも同じ姿をしている。  あれから数週間音沙汰がなかったので、私はもうミミズクの事などすっかり忘れていたのだが、奴は性懲りもなく姿を見せた。この家に来れば餌を恵んで貰えると勘違いしているのかもしれない。恐ろしく愚劣な知能の持ち主なり。私は愚劣なミミズクとは違って、物事を冷静に正しく判断できる。だから、今まさに昼食を摂ろうとしていた私は、ミミズクが窓の外から飛び込んできた瞬間、目の前にあった手付かずのステーキを一口に頬張り、ミミズクの窃盗を阻止した。ステーキを取り除いた皿にはまだ付け合わせの人参グラッセとマッシュポテトが残っている。私はモゴモゴとステーキを咀嚼しながら、両手ですくい上げた人参グラッセを口に押し当て、唇の先で啄むようにして口内に一片ずつ吸い込んでいく。部屋の中を徘徊していたミミズクがテーブルの隅に着地した。私は片手で残りの人参グラッセを吸い込みながらもう片方の手をドーム状にしてマッシュポテトに被せる。ミミズクが皿の側にやってきて首をぐるぐる回している。お前の手が届く範囲に食物は何一つ無いのだ、馬鹿め。羽を広げてテーブルから飛び上がるミミズク。諦めて部屋から出て行くかと思いきや、窓台に飛び移ったままなかなか出ていこうとしない。私がミミズクを追い払おうと椅子から立ち上がった直後、一直線に飛んできたミミズクが私の腹に爪を食い込ませた。 「んっ、んぐっ……ほんげぇっ」  可愛げのない赤ん坊の泣き声じみた呻きと共に、私は口からステーキを射出した。すかさずそれを拾い上げて軽快に飛び去るミミズク。  右手に不快な感触があった。マッシュポテトが私の手の中で更にマッシュされていた。床に散った人参グラッセは無残に裂けている。パックリと開いた口のような形の人参グラッセが、今にも何か、如何にも不吉といった感じのことを、しめやかに語り出しそうだった。  あいつと絡むとロクなことがない。私の腹は膨れず、立つばかり。  ようやくあのクソッタレミミズクを懲らしめるチャンスが巡ってきた。  ミミズクは窓の側に仕掛けておいたネットに引っ掛かってジタバタと藻掻いている。藻掻けば藻掻くほどミミズクの体にネットが絡まっていく。私はほうきを手に取り、ひと思いにぶん殴ってやった。取って付けたような不自然な打撲音の後、垂直に落下して床に転がるミミズク。床に這ったまましばらく羽を動かして暴れていたが、次第に動きが鈍くなり、とうとう微動だにしなくなった。ほうきでミミズクの体を突く。ミミズクは何の反応も示さない。死んだのだろうか。それほど力を込めて殴ったつもりはないが、当たり所が悪かったのかもしれない。  ミミズクの死骸に直面した私は死骸の処理方法を具体的に考えたが、様々な懸念が浮かんできて始末に困ってしまった。捌いて食材にしてもいいが、ミミズクは一般的に食用として流通していないから味は不明だし、食品としての安全性も不明だ。このミミズクは既に息絶えているから、もし病気を抱えていたとしても判断がつきにくい。この隠れ家では資源が限られているので食料は貴重だが、それでもストックはまだそこそこあるし、もし食料が不足したとしてもこんなゲテモノを食うより町へ出向いて一般的な食材を調達した方が遥かに安全で味も確かだ。  私は食す以外の利用価値をミミズクに見出そうとしたが何も思い浮かばなかった。そもそも私は、本当にミミズクを殺めるつもりなど更々なかったのだ。私はただ、自分の生活環境を乱された鬱憤を晴らしたかっただけだ。その鬱憤はミミズクを殴ることで晴れたが、床に転がって衰弱していくミミズクの姿を眺めているうちに、新たに自責の念がわだかまってしまった。少々面倒だが、寛容な私が哀れなミミズクに情けをかけて、土葬してやることにしよう。  ミミズクの死骸に手を伸ばす。私がミミズクに手を触れた瞬間、静止していたミミズクがやにわに暴れ出し、あろうことか善意で伸ばした私の腕を無残に引っ掻き、口ばしで手の甲を三度も突いた。  おのれ愚鳥め、鳥のくせに死んだフリなどしくさって。  やはりミミズクはミミズクだ、人間の繊細な気遣いを理解できようはずもない。そんな奴を人間界の風習に則って土葬してやろうなどと考えたのが間違いだったのだ。  死骸を装っていたミミズクはしきりに羽を動かしている。これだけ動けるなら命に別状はなさそうだ。羽を乱暴に動かすだけで一向に飛び上がる気配はないが、恐らく目眩のようなものを起こしてバランス感覚を一時的に失っているだけで、そのうち勝手に回復して勝手に飛んでいくだろう。私はもう相手をするのが馬鹿馬鹿しくなって、ミミズクをネットでくるんで窓の外にボトリと落とした。  私が一仕事終えて部屋に戻ってくると、ミミズクは先程と同じ場所に横たわっていた。全く動かない。今度こそ死んだのだろうか。家のすぐ側に死骸を放置しておいたら他の動物が漁りに来るだろうし、衛生的にも問題がある。  私は玄関から外へ出てミミズクの様子を窺う。ミミズクは気配を察知したのか、瞼を半開きにしてオレンジ色の眼球を覗かせた。まだ生きている。 「にゃあ~ん……」  今聴こえた音がミミズクの鳴き声であると気付くまでに、若干の時間を要した。 「んにゃぁ……」  ミミズクは猫によく似た鳴き声をあげて私に流し目を送る。私がミミズクの頭に手を伸ばすと、ミミズクはその手を無抵抗で受け入れた。もう抵抗する余力も無いということだろうか。ミミズクは虚ろな目で私を見据えて弱々しい鳴き声を発し続けている。ミミズクはどういった意図でこの鳴き声を発しているのだろうか。私はミミズクが無抵抗であると感じたが、実際は今も抵抗し続けているのかもしれない。混濁した瞳で送る流し目と弱々しい鳴き声が、今のミミズクにできる精一杯の抵抗なのかもしれない。  私はミミズクの真意を図るために自分の指をミミズクの口に差し入れた。ミミズクは口ばしを一切動かさない。やはり抵抗の意思はないのだろうか。いや、口ばしを動かす体力が残っていないだけかもしれない。それに、抵抗の意思がなかったとしても私の指を餌と勘違いして噛む可能性だってある。結局のところ、こいつの考えなど私には到底理解できないのだ。  そもそも私は何の為にこんなことをやっているんだ。今のミミズクには抵抗する余力がないのだから、抵抗の意思があるか否かを確かめる意味がないではないか。私はミミズクの不明瞭な行動に影響されて自分を見失っている。一旦晴れた鬱憤がぶり返してきた。  ミミズクをこのまま放っておけば、結果的に私がミミズクを殺したということになるだろう。恐らく私は、自分の意思に反してミミズクを殺してしまうことに不愉快さを感じているのだ。無意味な殺生により生じた罪悪感がいつまでも自分の中に留まり続けることを懸念しているのだ。仮にミミズクがあの時の一撃で即死していれば、ここまで思い悩むこともなかっただろう。自分の生活環境を乱されたからミミズクを殴った、その結果ミミズクは死んだ、それで片が付いていたはずだ。しかしミミズクはまだ生きている。結果が訪れるまでの空白があいてしまった。その空白が悩みを生むのだ。一度芽生えた罪悪感は、意識すればするほど己の中に広がっていく。  今すぐこのミミズクに止めをさして食してしまえばその死に意味が生まれるかもしれないが、私はミミズクを食べることを心底望んではいないのだから、それはやはり空疎な行為に違いない。  私は両手で自分の頬を張る。これ以上悩んでいても埒が明かない。立ち止っている人間は自然に思い悩むものだから、悩みを断ち切るには兎にも角にも行動が必要だ。とりあえずミミズクを回復させてやろう。そのうえでミミズクがまだ私の生活環境を乱すようなら、その時こそ一思いに殺してやる。  ミミズクの体にそっと手を触れる。目立つ外傷はないようだが、具合はすこぶる悪そうだ。内臓をやってしまったのかもしれない。  回復させてやるといっても、私は獣医ではないから特に効果的な処置を施してやれる訳ではない。とりあえず苦痛の少ない状況をこしらえてやって、経過を見守ることぐらいしかできない。手頃なケースにタオルケットを敷いてミミズクを寝かせてやった。あとは栄養だ。  夕食用に自然解凍しておいた肉を包丁で細かく刻んでスプーンに載せ、ミミズクに与えてみる。しかしミミズクは口をつけない。無理やり口に押し込んでやったら一口だけ食べた。それからミミズクは瞼を閉じてグッタリとしてしまった。私が羽を撫でると微かな反応をみせた。まだ生きているようだ。タオルケットでミミズクの体を包んでやった。今日はひどく疲れた。  私が目を覚ますと、ミミズクがニャンニャカニャンニャカと猫の鳴き真似声を響き渡らせていた。私はミミズクと同じぐらい猫が嫌いになった。  ミミズクの側に置いておいた水の量が少し減っている。新たに解凍しておいた生肉を差し出すと、すぐさま食いついてきた。皿に肉を載せてミミズクの前に置く。ペロリと平らげるミミズク。昨日の衰弱ぶりが嘘のようだ。ミミズクは空になった皿を突いて肉の追加を催促するような素振りを見せたが、これ以上与えると栄養過多になるので無視した。馬鹿は際限なく欲求を膨らませて後先考えずに満たそうとするから嫌いだ。さっさと全快させて逃がすなり殺すなりしてやりたい。  ミミズクが自力で飛べるぐらいまで回復したので、窓から外へ放り投げて野生に返してやった。  もう二度と会うことはないだろうと清々したのも束の間、ミミズクは数十分後に舞い戻ってきて、窓を外側からコンコンと突いている。私にはそれに応じる義理もへったくれもないのでひたすら無視していたが、あまりにもしつこいので根負けして窓を開けてやった。冬季も終盤に差し掛かり、幾分か寒さが和らいできたとはいえ、春分まではもうしばらく日数がある。いま窓ガラスを割られたら堪ったもんじゃない。勢いよく飛び込んできたミミズクは部屋の中に設置してある止まり木に落ち着いてさも当然のようにくつろいでいる。厚かましい。  何故こいつは私のもとに戻ってきたのだろうか。私に懐いているとは到底思えない。ミミズクは衰弱している時こそ私に触れられても大人しくしていたが、回復の兆しが見え始めたあたりから私に触れられるのをひどく嫌がった。私には馴れていなくても、人間に餌を与えて貰う環境には慣れてしまったのかもしれない。というか、こいつはもともと野生に適応できていなかったのかもしれない。この家の周りには沢山の野生動物が生息している。ミミズクの食用に足るような小動物も居るはずだ。その小動物を捕らえれば新鮮な生肉にありつけるにも係わらず、人間用に調理した肉をわざわざ奪いに来るということはつまり、こいつが自然界の落伍者であることを示しているのではないか。  私はこの哀れなミミズクに同情の念を抱きかけたが、止まり木に止まったまま糞を排泄する奴の姿を見て、同情の念を引っ込めた。部屋の所々にミミズクの羽毛や糞が散らばっている。こまめに清掃しているつもりだが、ミミズクは自由奔放に羽毛や糞を散らすので、私ひとりではとても手が回らない。私は他にもやることがある。ミミズクの世話に明け暮れる訳にはいかない。しかし、このまま不潔な環境を放置しておくのも抵抗がある。この家から最寄りの町までは徒歩で数時間の道のりだから、一人で暮らしている私が体調を崩すと一大事である。何人で暮らしていようと私が体調を崩すことは一大事に違いないが、とにかく早急に処置を講じる必要がある。  私は清掃やその他雑務の為にアンドロイドを製作することにした。以前から街への買い出しや食事の支度に少し手間を感じていたので、それらの手間をまとめて解消できるよい機会だと思えば、糞を垂れて部屋を汚すミミズクへの苛立ちも多少は紛れる。私は清掃に特化したロボットを製作した経験は無いが、今までに開発してきた軍事用アンドロイドの知識を応用できるはずだ。私は軍事用アンドロイドの開発に携わってきた中で、ひとつ、気付いたことがある。アンドロイドはロボットと違って、プレーンな状態で既に充分な万能性を備えているということだ。よほど大規模な業務や特殊な環境下で使用しない限り、新たに機能を追加して業務に特化させる必要がない。その証拠に、軍事用アンドロイドも殆どプレーンに近い。ただ、"人間に危害をくわえてもよい"という認可が思考回路に組み込まれているだけだ。プレーンなアンドロイドにはその認可がない。両者の間にある大きな違いはそれだけだ。清掃業務に特化した機能を備えていない軍事用のアンドロイドでも、清掃ぐらいは人並みにこなせるはずだ。人型ロボットであるアンドロイドには柔軟な身体の関節が備わっているし、戦地での戦闘行為や駐屯地での雑務を滞りなく行う為の柔軟な思考もインプットされている。清掃やその他業務の為にわざわざ専用のゴテゴテしたロボットを用意しなくとも、大抵の用事は軍事用のアンドロイド一機で事足りてしまうのだ。そもそもロボットに専門的な役割を与えることからしてナンセンスだ。この国には道具の扱い方を知らない人間が多いから、機能を少しだけ変化させたロボットをやたらとこしらえて、無駄に細分化している。そんなことに労力を割くより、万能型のアンドロイドを突き詰めて量産したほうが効率がいいに決まっている。  私は考えをまとめる為に湯を沸かしてコーヒーを淹れる。ソファに座ってカップに口をつけてアンドロイドに実装する機能を考え始めたところでミミズクがすり寄ってきた。こいつがすり寄ってくるのは餌を欲している時だけだ。私はカップを置いていつものようにミミズクに冷凍肉を与える。ミミズクの所為で冷凍肉のストックが急激に減っている。私の食料と時間はミミズクに奪われて――にゃあん、にゃあ、にゃあ、にゃあん。食料と時間だけでなく、思考も奪われているようだ。 ■■■2■■■ 「聞こえるか。聞こえたら返答しろ」私はようやく実用化に漕ぎ着けたアンドロイドに向かって言った。 「はい、聞こえたかもしれません」アンドロイドはバリトンボイスで答えた。 「聞こえたかもしれませんとはどういうことだ。聞こえたのか聞こえなかったのか、はっきりしろ」 「声は聞こえましたが、言葉の内容を完全に認識することができません。いくつかの子音が不明瞭です」 「ふむ。私が今までに発した言葉はどの程度聞き取れたんだ?」 「83%です。子音が曖昧な部分は、私の中にインプットされている単語データの中から、より適合性の高いものを選んで当て嵌めました」 「よし、しばらくその方法で会話を進行しろ」 「了解しました」 「それから、私の名前はエリスだ。呼称はドクター・エリスでインプットしておけ」 「はい、ドクター・ペニス」 「はぁっ!?」 「ドクター・ペニス」 「殺すぞっ」 「はい、殺されます」  アンドロイドは私の名前をペニスでインプットして一向に改めようとしない。"エリス"という言葉がどうしても正確に聞き取れないようだった。そんな馬鹿なことがあるか。  おまけに、私が発言した"殺すぞ"という言葉の方は正しく認識していて、しつこく殺害を催促された。私の命令に忠実に従うところは立派だが、どうにも頭が固すぎる。思考をもう少し解してやらなければならない。  私はアンドロイドの聴覚機能を調整して、記憶をリセットした。  私はミミズクの相手をすることに疲れてアンドロイドを製作したが、疲弊度でいえば、アンドロイドの相手をすることも同等かもしれない。  アンドロイドに部屋を掃除させてみたが、やはり私が思った通り清掃用のロボットなどなくともアンドロイドさえあれば十分だ。アンドロイドは器用に清掃用具を使い分けて、瞬く間に汚れを落としていく。 「これはゴミですか?」  アンドロイドが私の下着を指して言った。 「違う。それを捨てたらお前の手足をパージして、代わりにペニスを四本取り付けてやるからな」 「了解しました」  私の下着をゴミと認識しそうになったのはこいつが男性型のアンドロイドだからか、と思って納得しかけたが、そうじゃない、単に常識が欠落しているだけだ。女の下着をゴミと見間違える男がどこにいる。 「ドクター・エリス、これは処分しますか?」アンドロイドの腕にミミズクが止まっている。私の腕に止まったことは一度もないのに、アンドロイドに対しては警戒心を緩めているようだ。アンドロイドには既に人工皮膚を被せてあるので私とアンドロイドの見た目に差はないはずだが、ミミズクは動物的な本能でアンドロイドが非生物であることを見抜いているのかもしれない。 「いや、処分してもいいが今はやめておこう」 「了解しました」  ミミズクがアンドロイドの腕に止まったまま猫の鳴き真似を披露している。 「言葉の意味を理解できません。もう一度、別の表現で仰ってください」  ただでさえ騒がしいのに、アンドロイドがミミズクの鳴き声にいちいち反応するので余計にやかましい。  私は騒々しい環境が嫌いだし、愛玩目的で生物を飼うのも嫌いだ。だからその根源であるミミズクのことも嫌っているが、別段憎んではいない。嫌う事と憎む事はよく似ているようで少しニュアンスが違う。嫌うという行為は主に感性の問題で、そこに善悪の概念はない。だが、憎むという行為にはまず理性的な動機があって、憎しみを抱く人間はその対象が自分にとって揺るぎない悪であるという認識を持っている。  ミミズクに生活環境を乱されたことは憎しみを抱く理由にはならないのか、と自問自答してみるが、私にとってそれは表面的な問題だから憎む理由にはならない、という結論に達する。余裕がある人間は憎しみを抱くような見苦しい真似はしない。さらっと嫌って終わりだ。  私は図々しいミミズクが嫌いだし、融通の利かないアンドロイドも嫌いだし、そのような奴等との生活を甘んじて受け入れている自分自身も嫌いだ。しかし、好きなものが自分にとって必ずしも良いものではない事と同じように、嫌いという感情も、必ずしも悪いものとは限らないのかもしれない。  私は窓を開けて空気を入れ換える。 「おい、掃除する時は窓を開けろ。埃が立って部屋の空気が汚れるからな」 「了解しました」  窓から吹き込む春風が、ミミズクの斑な羽毛を微かに揺らしている。  今日もアンドロイドは家中に散らばったミミズクの羽毛や糞や埃を掻き集めて掃討している。「ドクター・エリス、清掃が完了しました」連日こいつに掃除を行わせているので家の中がすっかり清潔になった。昨日までは殆ど一日中掃除を続けていたが、今日はついに汚れが見当たらなくなって作業を止めたようだ。 「ご苦労。もし磨き残しがあったら、お前の頭髪を全て抜いて髪の代わりにモヤシを植えてやるからそのつもりで」 「了解しました。……ドクター・エリス、私には担当業務がインプットされておりませんが、私は清掃用のアンドロイドでしょうか?」 「とりあえず清掃を行わせていたが、清掃専用という訳ではない。他にも何か用事があれば言いつける」 「清掃の他に具体的な業務内容が決まっていれば、予め担当業務をインプットしておいていただけると助かります」 「担当業務を設定する必要はないだろう。自分で判断して勝手に動け」 「では、私の判断で私は清掃業務を担当します」  アンドロイドはそう言って、椅子の足を持ち上げてその裏側を一本一本入念にチェックし始めた。アンドロイド自身が掃除したばかりだから当然汚れはない。 「おい、清掃はもう済んだろうが。他の事をやれ」 「他の業務をインプットしてください」 「家事だ家事」 「家事の具体的な内容をインプットしてください」 「面倒臭い奴だな……。洗濯、食事の用意、薪割り……あと、ミミズクの餌やり。とりあえず今言ったことを状況に応じて実行しろ。細かい疑問があればその都度私に訊け」 「了解しました。私は家事用のアンドロイドですか?」 「家事用ではなく、家事をやれと言っただけだ。お前は肩書きが無いと業務を全うできんのか?」 「目的が不明瞭な場合、業務に支障をきたす恐れがあります」  こいつがここまで細かい設定を求めるのは、こいつの思考回路を構築する際に軍事用アンドロイドの思考回路をベースにしたからだろうか。戦場では僅かな判断ミスが命取りとなるので、より具体的な行動指針が求められるのかもしれない。私は軍に居た頃、アンドロイドの開発を担当していただけで、組み立てられたアンドロイドと接する機会は殆どなかった。こうして実際にアンドロイドと接してみると、私が思い描いていたアンドロイド像と異なっている部分がしばしば目につく。アンドロイドに具体的な行動指針を設定してやれば、労力の無駄遣いが減って、今よりも作業の効率が上がるだろう。効率が上がること自体は望ましい。しかし、抽象的な指示の意図を汲み取れないアンドロイドなど、私が嫌いなゴテゴテした専用ロボットと同じではないか。ロボットとアンドロイドの違いは外見のみならず、内面にも及ぶはずだ。そもそも、非人型のロボットに対し、アンドロイドが人型なのは、機械をより人間に近づけて人間社会に溶け込ませる目的があるからだ。人型のアンドロイドは内面的にも人を模倣すべきなのだ。アンドロイドが担当業務を求めるように、人間にも職業があって肩書きが存在する。しかし、人間は職業や肩書きを持った状態で産まれてくる訳ではない。私は職業や肩書きのないアンドロイドがどういった行動に及ぶのか興味が湧いた。 「業務に支障をきたしてもいいからお前の判断で好きにやれ」  アンドロイドは一拍置いて口を開いた。「了解しました」  アンドロイドに家事を任せてから何もかもが効率的になって無駄が減った。特に食品の管理に関しては以前との差が顕著だ。アンドロイドは食材の在庫数や一つ一つの腐敗具合を全て正確に把握している。そして食材の中からより足の早い物を選んで最適な栄養バランスと味を併せ持った料理を作る。味のほうは私が作る料理には到底及ばないが、それなりに美味い。ミミズクに与える栄養もアンドロイドが管理している。  アンドロイドは基本的に休息をとらない。朝食を作って洗濯を済ませて掃除を終えたら、後は昼食を作る時刻になるまでひたすら食器の汚れ具合をチェックしたり机との角度がほんの少しズレた椅子をぴったり揃えたりして家中を絶え間なく動き回っている。 「おい、やることがないなら休め」私がそう言うと、アンドロイドは部屋の隅へ行って直立したまま微動だにしなくなった。そして昼食を作る時刻になると再びセカセカと動き始める。"昼食を作る時刻"というのも私が決めてやった時刻で、アンドロイドはその命令に忠実に守って毎日同じ時刻に昼食を作り始める。 「ドクター・エリス、お味はいかがですか、お口に合いますか」私が昼食に口をつけるや否やアンドロイドが訊ねてきた。こいつは初めて作る料理に私が口をつけるタイミングで毎回同じことを訊いてくる。かなり鬱陶しいが、答えてやらないとしつこく同じ質問を繰り返すので私は仕方なしに味の感想を言う。 「ああ、ウマイウマイ」 「料理に関する不満はありませんか?」  アンドロイドは今後のメニュー構成の参考用に私の好みをインプットしているようだ。 「無い」 「料理の味を10段階で評価してください」  アンドロイドは"味覚"という曖昧なものをデータ化する為に、味に関する質問を重ねる。毎度毎度限りなく明確な評価を求められるので、私はその対応に苦慮する。  私は自分の中に湧いた感想を言葉に変換する過程で、俗念や憐憫といった余分なものが混じることを自覚している。  だからこういった事は言葉で伝えるよりも行動で示すように心掛けているのだが、このシェフ気取りのアンドロイドに限っては味の感想をストレートに言葉で伝えなくてはならない。以前アンドロイドの質問を適当にはぐらかしていたら、私が適当に伝えた不満点を参考にして翌日にクソ不味い料理を出してきたのだ。食料の調達が困難なこの場所では一片のパンも無駄にできないし、クソ不味いといっても咀嚼せずにすぐさま飲み込めばなんとかなる程度の不味さだったので、寛容な私は我慢して食べ進めていたのだが、黒々とした料理の中から出てきたカラフルな輪ゴムを見て、これはもう駄目だと思い食事を中断した。アンドロイドにこれは何かと訊ねると、食感に不満を持たれていたようなのでアクセントとして輪ゴムを加えてみました、などとのたまう。やはりこいつは常識が欠落している。私は自分の身を守る為に、自分に正直であらねばならない。 「じゅ、10点中9点だよ」 「残りの1点に含まれる不満を具体的にお教えください」 「……あー、もうっ……10点だよ……」  カーテンの隙間から射し込む陽射しが瞼を切り裂いて朝の訪れを知らせる。  私はベッドから身を起して口をすすぎ、顔を洗いながら今日の予定を立てる。  馬鹿とナントカは使いようというコトワザの通り、大抵の馬鹿は、使う者次第で何らかの効果を発揮するものである。しかしいくら使う者が優秀だとて、機会に恵まれなければ馬鹿は役立たずのままである。今の生活環境においてアンドロイドは使える馬鹿だが、ミミズクはどうひっくり返しても使えない。私は毎朝1分間、ミミズクの使い道を考える時間を設けているが、今日も例のごとく何も思い浮かばないまま洗顔を終える。まだミミズクが役立つような機会が訪れていないということだろう。  私はアンドロイドに買い物を任せることにした。この隠れ家から街まで約15km、乗り物が通れるような道があると隠れ家の意味がないので、移動手段は当然徒歩である。 「おい、お前の中にある燃料の残量を教えろ」 「残り86%です」  頭の中で、街までの移動距離と街での滞在時間と購入する食品の量を計算する。 「徒歩で15km、それから60kgの荷物を持って更に徒歩で20km。今ある燃料でその仕事を全うすることは可能か?」 「可能です。それらの運動を円滑に行った場合、消費する燃料の予測値は、全体容量の約6%です」アンドロイドは即答する。 「よし、今から街へ行くぞ。出掛ける前に戸締まりをしろ」 「街へはドクター・エリスも同行なさるのですか?」 「ああ、そうだ」 「了解しました」 「予め言っておく。家の外では、お前がアンドロイドだと悟られるような言動を禁止する」 「私は自分が人間らしく見えるように振る舞えばよいのですか?」 「そうだ。今からその理由を説明するから、正確にインプットしろ。差し迫った状況に遭遇した場合はお前の判断で行動しろ」 「はい」  私は頭の中でアンドロイドに伝えるべき情報を整理する。 「アンドロイドには人権が認められていない。人間の所有物扱いだ。アンドロイドの所有者は役所に届出を出すことが義務付けられているが、私はお前の届出を出していないし、出すつもりもない。だからお前がアンドロイドであることが知れると、色々と面倒なことになる」 「届出を出さないのは何故ですか」 「私は軍から離反して行方をくらましている身だからな。届出を出すと私の情報が軍に伝わる可能性がある。私は軍との関わりを断ちたいと考えている」 「理解しました」 「それから、外では私の名前も伏せておきたい。家の外でエリスという名を口にするな」  エリスという名前は至って平凡だし、軍のような巨大な組織がいつまでも私をマークしているとは思えないが、用心に越したことはない。 「家の外ではドクター・エリスの事を何とお呼びすればよろしいですか」 「あー……そうだな、お嬢様とか……」 「お嬢様」 「い、いや、その呼称は目立つな……偽名が必要か」  私は名前を付けるという行為がひどく苦手だ。大した用途のない偽名なのだから適当に決めてしまえばいいのだが、自分が命名した名前というものは、自分の感性の欠片のように思えてどうにも気恥ずかしい。 「あー、えー……お前の名前も必要だな」 「私にはHX-01という型式番号が設定されています」 「ああ、そうだったな。しかし、人前で型式番号を呼ぶ訳にもいかんしな……」  型式番号に代わる名称がなかなか思い浮かばない。こういう時の決断力の無さが私の唯一の欠点かもしれない。  私が思いあぐねていると、HX-01は会話が中断したと判断したのか、急に動き出して戸締まりを確認し始めた。かと思いきや、HX-01は開いた窓の前で立ち止まって外を眺めている。 「どうした、HX-01。窓の外になにかあるのか?」 「未登録の物体があります」  私はHX-01に近寄って窓の外に視線を向ける。外の森はすっかり春の陽気を帯びているので、日中は窓を開け放している。窓から見える景色に昨日と異なる点があることに気づく。紫の花が咲いている。 「ああ、あれは木蓮という花だ。あれが気に入ったのか?」 「私には好みという概念を実感する機能がありません」  いちいち癪に障る言い方をするが、こいつの言う事はもっともだ。 「確か木蓮の学名は、マグノリア・リリフローラと言って……」私は独り言のように呟いたところで、マグノリアが昔の植物学者の名前を元につけられた名称であることを思い出す。 「丁度いい、お前に人間のような名前をやろう。マグノリアでいいだろ。考えるのが面倒くさい」私はそう言って窓を閉める。 「マグノリア」HX-01は抑揚のない声で言った。 「ああ」 「私の名称をマグノリアでインプットします。外出時のドクター・エリスの呼称はどうなさいますか」 「あー、えっと……お前の名前がマグノリアだから……えっと……」 「ドクター・エリスの呼称もマグノリアにしますか?」 「やめろ馬鹿。……もうリリフローラでいい」 「了解しました。外出中はドクター・エリスをリリフローラと呼称します」  マグノリアもリリフローラも一般的な名前ではないから少し目立つかもしれないが、街へは買い出しに行くだけだから名前を呼ぶ機会自体ほとんどないだろうし、なによりこれ以上命名のことで頭を悩ませたくなかったので、多少の不自然さには目を瞑ることにした。 ようやく偽名が決まって一息ついた後、私は着替えに取り掛かる。寝汗を吸ったシャツを脱いでブラをつける。次は服装を選ばなくてはならない。重たい頭を抱えながらクローゼットを開いて無造作に一着取り出し、鏡の前に立って自分の体に服を重ねてみる。毎度のことながら、どうもしっくりこない。私に似合う服装などこの世に何一つ存在しないのではないかという懸念が頭を掠めるぐらいしっくりこない。外出の度にこんなに思い悩んでいるのだから、運が巡り巡って一度ぐらいしっくりきてもよさそうなものだが、その兆しすらみえないのだから最早私にはどうすることもできない。一度でもしっくりきてくれれば、今後一生その服を着続けるのに。どうせ街中ですれ違う人間は他人の服装など気にしていないし自意識過剰であることも自覚しているが、他人の視線がどうというより、私はファッションセンスの乏しさに甘んじている自分自身を許すことができないのだ。以前外出した際、何気なしに目を向けたショーウインドウに自分の不格好な姿がうっすらと映っていて、危うくガラスを叩き割りそうになった。なぜ私はあんな浮かれたティーンエイジャーのようなコーディネートを選んでしまったんだ。くそ、いい歳をしくさって、忌まわしい。忌まわしき記憶。思い出しただけで体温がぐんぐん上昇する。過去に戻ってあの時の自分を大型車で轢き殺してやりたい。 「ドクター・エリス、戸締まりが完了しました」 「ひゃんっ!」  私は咄嗟に身を縮こまらせて手にしていた衣服で体を覆う。 「……」  そっと横を向くと、マグノリアが立っていた。  何をやっているんだ私は。相手はアンドロイドなのだから、恥ずかしがる理由がないではないか。単に恥ずかしい出来事を思い返していたのと、不意に声をかけられたことが合わさって、気が動転してしまっただけだ、私は自分にそう言い聞かせる。 「そ、そうか。じゃあ私が行くまで玄関で待ってろ」 「了解しました」  マグノリアが部屋を出ていく。去り際、マグノリアが身につけているパツンパツンのパンツが目に留まる。そういえばあいつには私の服を着せていたんだった。私が持っている服は性別を限定しないようなものが多いのであいつが着ていてもさほど違和感はないが、男女の体格の違いは誤魔化しきれない。上の服も下の服もあいつの体にフィットしていないので、生地が膨張していて、まるで自己顕示欲が強いゲイのようだ。  私はもうファッションのことなんかどうでもよくなって、目を瞑って無造作に服を掴んだ。背中にクマさんの顔がデカデカとプリントされた、茶色だか黄色だかよく分からない色のパーカーだった。  着替えを終えて玄関に行くと、腕にミミズクを乗せたマグノリアが立っていた。ミミズクはすっかりマグノリアに懐いている。 「おい、そのミミズクは――」置いてこい、と言いかけて思い止まる。ミミズクも一緒に連れて行ってもいいかもしれない。このままミミズクを束縛せずに外へ連れて行けば、恐らく街へ向かう途中でどこかへ飛び去るだろう。そうなったとしても私は一向に困らない。この家にミミズクが居たところで何の役にも立たないのだし、むしろ勝手に飛び去ってくれれば厄介払いができて清々する。  私たちは家を出て街へ向かって歩き始める。順調にいけば、向こうでの滞在時間を考慮しても日暮れまでには帰りつけるだろう。  苔に覆われた森の地面はでこぼこしていて歩きにくい。おまけにマグノリアが未登録の植物を見かける度に足を止めるので、私は常にマグノリアの様子を気にしながら歩かなくてはならない。マグノリアの行動に気を取られすぎて少し浮き出た木の根に足を取られ、私は前のめりに転倒する。 「大丈夫ですか、リリフローラ。それと、このキノコに関する情報をお持ちであればお教えください」マグノリアは片手を差し出して私を引き起こしながら言う。 「知らん」私は膝の土を払いながら言う。本当に初めて見るキノコだった。  マグノリアはそれ以上なにも言わず、再び前を向いて木漏れ日の中を歩き始める。私はその後に続く。この世は知る必要のないもので溢れているが、それが自分にとって必要か不要かを判断する為には、不要なものをある程度知っておく必要がある。だから私は、マグノリアが興味を持ったものに関して何か知っていることがあれば、出来るだけ詳細に伝えてやった。ミミズクが鳴いている。家を出てから鳴く頻度が増えたような気がする。既に1時間以上歩いてきたが、ミミズクはマグノリアの片腕に止まったままだ。飛び去る気配はない。もしこのミミズクが人間に餌を与えて貰う環境を知らないままだったら、今頃どのような環境で生きていただろうか。  歩き始めて約3時間半、ようやく街に辿り着く。結局ミミズクは街まで大人しく同伴してきた。  さっさと買い物を済ませて帰りたいところだが、このままマグノリアとミミズクを連れて街を練り歩く訳にはいかない。マグノリアの腕にミミズクが止まっているだけでも目立つのに、そのうえこいつの服装はパツンパツンのゲイファッション。こんな変態を連れてあちこちの店を回れるほど、私は図太くない。マグノリアにしばらくここで待つように言いつけて、私は一人で商店街へ向かう。  早足で歩いてブティックに入る。そこで男物の服を一式選んで会計を済ませ、次にペットショップで小型のケージとペット用の肉団子を買う。 「ほら、これに着替えろ」  今買ってきた服をマグノリアに渡す。 「了解しました」  着替えを待つ間にミミズクをケージに放り込む。ミミズクはケージに入れられても相変わらず大人しくしている。肉団子を与えてやったらモソモソと食べ始めた。後で噴水の水を飲ませてやろう。 「着替えが完了しました」  恐ろしく似合っていない。私は出来るだけマグノリアの体形や顔つきに合いそうな服を選んだつもりだが、実際に着せてみると、想像からかけ離れたビジュアルだった。ブラウンのジャケットにクリーム色のパンツ、ジャケットの丈が長すぎてチョコバナナを彷彿させる。街に着いてから食べ物のことばかり頭に浮かぶ。朝食を抜いた所為だ。 「これを持て」マグノリアにケージを握らせて私たちは歩き始める。 「リリフローラ、そろそろ昼食の時刻です」 「ああ」 「先程から頻繁にリリフローラのお腹が鳴っています。昼食を摂ることをお勧めします」 「うぐっ……」  アンドロイドの聴覚は人間よりも優れているので、大多数の人間が聞き洩らしてしまうような雑多な音も正確に聞き分けることができる。私はグチャグチャした中身のサンドウィッチとライスコロッケを買って、噴水の縁に座ってモソモソと食べ始める。食べながらマグノリアに指示を出す「ミミズクに水をやってくれ」「はい」。このサンドウィッチは中身の具が脳髄のようで見た目こそおぞましいが、味はなかなかいける。隠れ家で暮らすようになってから、食べ物に対する意識が変わった。自分で料理をするようになったからかもしれない。以前の私なら、こんなクソまずそうなサンドウィッチは端から口に入れようとしなかっただろう。 「その料理の味はいかがですか」  マグノリアがライスコロッケを入れていた袋に噴水の水を汲んで、こちらに差し出しながら言った。私の飲み物が見当たらないので噴水の水を飲料水として渡してくれたのだろう。私はそれを受け取って噴水に流す。 「まあ、それなりに」 「私が作った料理と比較して、どちらがリリフローラの口に合いますか」 「知らん。自分で作った料理以外はどれも同じようなもんだ」  マグノリアは様々な質問を投げかけてくるが、中でも料理に関する質問が特に多い。質問が多いのは、私が家事業務の細かい内容をプログラムしなかったからだ。マグノリアは業務を最適化する為に質問を繰り返す。私はその問答を面倒に感じているが、今さら方針を変えるつもりはない。特定の業務だけを担当するロボットの利点はよく分かる。既存の家事プログラムを組み込んで家事用アンドロイドとして運用した方が、人間にとっては無駄が少なくて便利だ。しかし、アンドロイドが人間を模倣しているなら、必ずしも便利である必要はない。  私がサンドウィッチを食べ終わったのを見計らって、マグノリアが手を差し出す。私はその手にサンドウィッチの包み紙を握らせる。最近はいちいち指示を出さなくても、マグノリア自身の判断で勝手に行動することが増えた。  マグノリアがサンドウィッチの包み紙を郵便ポストに入れた。 「……馬鹿」私はため息交じりに言う。 「どうかしましたか」 「それはゴミ箱じゃない」 「なんですか」 「郵便ポストだ。詳しい情報は後で教えてやる」 「了解しました」  私は、通行人がマグノリアの奇行を目撃して訝しんでいるのではないかと不安になってあたりを見まわす。人通りはちらほらあるが、誰もこちらに注目していなかった。私たちは野暮ったい身なりをしているうえミミズクを携えているので街ではかなり目立つだろうと思ったが、どうやら思い過ごしだったようだ。街には私たち同様に野暮ったい身なりの人間が多いし、用途が不明な物体を抱えている人間もちらほら見かける。たまにミミズクが鳴くと注目を浴びるが、それも一瞬のことだ。  マグノリアが郵便ポストを凝視している。道中の森では未登録の物体を見かける度に立ち止まることを許していたが、街ではそうもいかない。通行人に興味を持ちだしたら厄介だ。私はマグノリアの手を引いて歩きだす。マグノリアの皮膚は人間の体温を再現しているが、汗腺機能がないので汗は全くかかない。私の汗ばんだ手と合わせる際に少しの違和感と気恥ずかしさを感じたがマグノリアは全く気にしていない様子だったので私も気にするのをやめた。 「あまりキョロキョロするな」 「キョロキョロとはなんですか」 「絶えずあたりを見まわすことだ」 「はい」  私たちは食料品店に入った。買い物をする間そちらでミミズクを預かっておいてもらえないか、レジに居る初老の女性にそう頼むと、快諾してくれた。初老の女性は人生の余裕と諦観を併せ持っているので人間ができている、という話を以前初老の女性から聞いたことがある。本当かもしれない。  マグノリアにショッピングカートを押させて私はカゴの中に食料品を放り込む。乾物を中心に、調味料、小麦粉、油など。今回は備蓄品を調達することが目的なので、生モノは程々にしておく。今後マグノリアが一人で買い物をこなせるようになったら、数日おきに生野菜や生肉を買いに来させてもいいかもしれない。 「リリフローラはそれが好きですか?」  私の手には大量のピスタチオ。 「特別好きという訳ではない。ただ、ナッツ類は栄養価が高いから」 「リリフローラが一番好きな食べ物はなんですか?」  私はこういう質問をしてくる輩が大嫌いだ。好みを晒すという事は恥部を晒すに等しいというのに、無神経な人間はそれが分かっていない。 「マグノリアは何が一番好きなんだ」 「リリフローラが好きなものと同じです」  何を言っているんだこいつは、と思ったが、マグノリアには感情機能がないことを思い出して納得する。感情がなければ好き嫌いの判別もつかない。それをストレートに伝えると自分がアンドロイドであることが周りに知れてしまうから、私の言いつけを守って、自分が人間らしく見えるように返答をぼかしたのだろう。 「トウモロコシだよ……」 「なにがですか」 「……だから、私の好きな食べ物……」 「では、それも買いましょう」  マグノリアは野菜売り場へ行って両手いっぱいにトウモロコシを抱えてきた。 「や、やめろ。そんなに……」 「トウモロコシは体積の割に食べられる部分が少ないので、少し多めに持ってきました」言いながらカゴにトウモロコシを次々挿し込む。少しどころではない。買い物カゴが弾薬箱のようになった。 「確かにそうだが……無駄な部分が多いから、持ち帰ることを考えると効率が悪いだろう。それなら缶詰のほうが……」 「缶詰は生のトウモロコシに比べて味が落ちます。リリフローラは食べ物の中でトウモロコシが一番好きということなので、運搬の効率よりも味を優先すべきだと考えました」  味を優先するといってもトウモロコシの旬はもう少し後だから、今の時期に店に並んでいるトウモロコシは最高の状態ではない。マグノリアは味にやたら敏感なようだが、食材ごとの味の差をどこまで把握しているのだろうか。マグノリアは実際に生のトウモロコシと缶詰のトウモロコシを食べ比べることができない。自分が体感し得ない領域だからこそ、ここまでの拘りをみせるのかもしれない。 「缶詰の味で十分でしょうか。戻してきます」  私の沈黙を否定の意と受け取ったのか、マグノリアがトウモロコシを一本ずつ引き抜き始めた。 「い、いや……別にいい……」 「別にいいとは、どういう意味ですか」  本当はこいつの正体は人間で、私を辱めるためにアンドロイドのふりをして白々しい質問を投げかけてくるのではないかという妄想が頭をかすめるが、もちろんそんなはずはないので、私は鬱憤をくすぶらせたまま唇を歪ませる。 「そのトウモロコシは、そのままカゴに入れておけ」 「全て買いますか?」 「う、うん……」 「了解しました」  こいつの相手をしていると調子が狂う。  私は基本的に主張を曲げない。どのような相手に対しても自分の主張を通すべく尽力してきたつもりだ。しかしミミズクやマグノリアを相手にすると途端にその気力が失せてしまう。動物や機械には魂胆がないことを、頭の片隅で理解しているからかもしれない。人間以外のものに悪意や善意はない。あるのは剥き出しの本意だけだ。  私は余計な思案を振り払うべく、トウモロコシが挿さったカゴの隙間を調味料で埋めていく。塩、塩、砂糖。お酢、お酢、胡椒。ケチャップ、マスタード、タマリンドペースト。ショッピングカートに載せたカゴが二段とも一杯になる。マグノリアに新たなカゴを持たせ、私はマグノリアの代わりにショッピングカートを押す。 「他に何か買いますか」 「あとは缶詰だ」  マグノリアに指示を出して缶詰を取らせる。 「おい、それじゃない。スイートコーンばかり取ろうとするな」 「はい」 「待て、豚の脳みそ缶なんか買ってどうするつもりだ」 「リリフローラが食べます」 「お前は豚の脳みそを使いこなせるのか」 「豚の脳みそを用いたレシピを知りません。デザートとしてそのまま出します」 「戻せ」  マグノリアが溢れんばかりの食料品で埋まったカゴを持ち上げてレジカウンターに置く。カゴの中のケチャップが一本ぼとりと落ちた。ねえ、こんなに缶詰買ってどうするつもりなの、レジ係がケチャップを拾い上げて言った。ミミズクを預かってくれている初老の女性だ。すごい量ね、シェルターでもこしらえたの?初老の女性はそう言いながら食料品をレジに通していく。 「シェルターはまだ作っていません」私が口を開く前にマグノリアが答えた。 「作る予定があるの?」 「ありません」私は二人の会話に割って入る。このままマグノリアの発言を見過ごしていたら何を言い出すか分かったもんじゃない。もしマグノリアに対して妙な印象を持たれたら、そこから綻びが生じて、マグノリアがアンドロイドだとバレてしまうかもしれない。このレジに向いた監視カメラが二台、レジカウンターに置いたカゴは残り三つ、おまけにミミズクは預けたまま。この状況でのトラブルは避けたい。 「分かった、お楽しみ缶詰会じゃない? そうでしょう?」 「お楽しみ缶詰会とはなんですか」 「あら、また違った」  初老の女性は絶えず手を動かしながら同時に口も動かし続けている。 「あんたたち似てるわね。どこがって訊かれると困るんだけど、なんとなく雰囲気が似てるのよ。よく似てるって言われない?」 「言われます」マグノリアが勝手に答える。誰にも言われてないだろうが馬鹿。私はマグノリアの発言を止めるためにこっそりマグノリアの尻をつねるが、マグノリアには痛覚がないことを思い出して徒労に終わる。 「やっぱりねえ。あ、そうか、あんたたち表情が似てるのよ表情が。あのね、これは悪い意味にとらないで欲しいんだけど、あんたたち二人とも表情がずっと変わらないのよ。店に来た時からね。ただ買い物してるだけで表情なんてそうそう変わらないと思うかもしれないけど、そういうのって無意識のうちにコロコロ変わるもんなのよ。あたしミミズク預かってるから、あんたたちのこと忘れちゃいけないと思って、売り場に居るあんたたちを気にしてたんだけどね、ずっと表情が同じだったのよ。それが良いとか悪いとかってことじゃなくてね、ほら、そういうのって個性でしょう? それにしても似てるわねえ。二人並べるとちょっと違うけどね」初老の女性はマグノリアを指差す「あんたはどちらかというと落ち着いてて」次に私を指差す「あんたはキリッとした感じね」  この人は思い浮かんだことが全て口から出るのだろうか。 「あんたたち恋人同士?」 「違います」私は即答する。マグノリアは質問を受けてから返答までの思考時間が短いので、うかうかしていると先を越されてしまう。 「長年一緒に暮らしてる夫婦は互いの顔に似てくるってよく言うでしょう? そういうのって一緒に暮らしてるから似るんじゃなくて、元から似てたのよ、性質がね。だから巡り合って結婚したのよ。で、あんたたちどういう関係?」 「兄妹です」私は咄嗟に答える。兄妹よりも先に友人という関係が頭に浮かんだが、喉元まで出かかったところで何とか飲み込んだ。もし友人と答えていたら、どこで知り合ったとかいつ知り合ったとかいうことを根掘り葉掘り訊かれて、私は更に細かい嘘を重ねる羽目になっただろう。レジカウンター上のカゴは残り二つ。 「それで似てるんだ。顔はあまり似てないけど、雰囲気が似てるもんね。きょうだいって、どっちが上でどっちが下なの?」  初老の女性は私たちの顔を交互に見る。 「私が兄でリリフローラが妹です」  また先に答えられてしまったが、私よりマグノリアの方が外見的には上に見えるので、この受け答えは自然だ。 「妹さんリリフローラっていうの? いい名前ね、珍しいけどいい名前ね。名前つける時ってさ、呼びやすさとか普遍性とか色々考えるけど、最終的になにが大事かって言ったら、結局その名前をつけるものに対する想いなのよ。あたしも子供が二人居るからね、リリフローラって名前つけたご両親の気持ちが分かる気がするわ。多分ご両親は、リリィとフローラを候補にあげて、どっちにするか最後まで迷ったんじゃないかしら。それで悩んだ末に両方くっつけたのよ。リリィもフローラもいい名前だからね、分かる気がするわ。あ、これ賞味期限切れてるみたい。売り場から期限大丈夫なやつ持ってこようか? もういい? そう、ごめんなさいね。こういうのたまにあるのよ。だからあたし、担当の人間にしっかりチェックしろって口をすっぱくして言ってるんだけど、なかなかね、ごめんなさいね。なんかあたしばっかり喋ってるわね、普段はこんなにベラベラ喋んないのよ、ほんとよ、なんかあんたたちが相手だと話しやすいのよ、あんたたちって、話聞いてる時もずっと同じ表情で、嫌な顔も愛想笑いもしないじゃない? でも質問したらちゃんと答えてくれるし。だから話しやすいのかしら、ほんとの聞き上手って、あんたたちみたいな人のことを言うんだと思うわ」  初老の女性は止め処なく言葉を発し続けている。カゴは残り一つ。 「あ、そんなことより、すぐそこの通りでこのあいだ起こった事件、知ってる? そこの通りにバス停があるでしょう。ほら、端のほうがささくれ立って背もたれの塗装が剥げたベンチが設置されてるあの。あそこで車椅子のおばあさんがバスを待ってたの。で、そこに男の子が歩いてきて、おばあさんの前で転んだんだって。男の子は痛い痛いって言いながらビービー泣いた。おばあさんは男の子をなだめて泣きやませようとしたんだけど、一向に泣きやまない。そこにアンドロイドが通りがかったの。アンドロイドは男の子の後ろを歩いてたから、男の子が転んだところも見てたんだけど、ビービー泣いてる男の子には目もくれずに通り過ぎようとした。だけど、おばあさんに声をかけられて立ち止まったの。おばあさんはアンドロイドに、男の子を自宅か病院まで連れて行くように頼んだらしいわ。あんまり泣くから、もしかしたら骨にヒビが入ってるかもしれないっていうことでね。アンドロイドはおばあさんの言う通りに男の子を背負って、病院に連れて行こうとした。背負われた男の子はよりいっそう泣き喚いて、痛みを訴えたらしいわ。アンドロイドは男の子を気遣うこともなく、ずんずん歩いて病院へ行こうとした。そしたらまたおばあさんがアンドロイドを呼び止めて、男の子の話を聞いて痛くないようにしてやってくれって頼んだの。アンドロイドは、どうすれば痛みが和らぐかを男の子に訊ねたの。でも男の子は相変わらず痛いって言いながらビービー泣くだけ。"痛い"っていう言葉じゃ答えにならないから、アンドロイドは痛みを和らげる方法を何度も訪ねたらしいわ。それを何度か繰り返したあと、男の子が、降ろせ、って言ったの。アンドロイドは男の子をゆっくり降ろそうとしたんだけど、男の子が暴れながら、離せすぐ降ろせ、って言ったから、素早く手を引いて男の子を地面に落としたんだって。コンクリートの地面で体を打った男の子は、もう死ぬんじゃないかってぐらい大声で喚いて、歩道を転がって、車道に落ちたの。で、ちょうどそこへきたトラックに頭を轢かれて、即死したんだって」  初老の女性はそこで言葉を止める。カゴの中身がちょうど空になった。初老の女性は商品を袋に詰めながら合計額を言う。レジを通した時にそのまま袋に入れてくれればよかったのに。私は紙幣を取り出してカルトンに置く。 「そのアンドロイドはなんで男の子を落としたと思う? そのアンドロイドはね、所有者登録されてなかったのよ。でも持ち主が居なかった訳じゃないの。警察がアンドロイドのメモリーから所有者を割り出したらしいわ。その所有者はね、アンドロイドを知人から譲り受けたらしいんだけど、所有者を変更する方法が分からなかったんだって。そのままだとアンドロイドが自分の命令を聞いてくれないから、アンドロイドの設定を全部リセットして、所有者を登録してない状態で使ってたらしいわ。だからそのアンドロイドは、誰の命令にでも従う設定になってたんだって。だから男の子の言葉に従って、すぐに手を離したってわけ。嘘みたいな話でしょう? でもほんとなのよ。アンドロイドのメモリーにその時の状況が全部入ってたからね」  食料品が詰まった袋を受け取る。マグノリアにも両手に袋を持たせて、私は急いでいる風を装う。 「そうですか。それじゃ」  出口へ向かって足を踏み出す。 「あ、ちょっと、ミミズク忘れてるわよ」  そうだった。私はレジカウンターのほうへ向き直り、ミミズクが入ったケージを受け取る。 「後ね、面倒事になるといけないから一応言っとくわ。アンドロイドが起こした事件の影響で、うちの店も防犯対策することになったのよ。出口のとこにセンサーがあるからね、そこをロボットが通ると、自動で所有者の情報を読み取って、役所に照会するようになってるの。最近はロボットの届出を出してない人が結構居るからね。うちはセンサーなんてつけたくないのよ。でも、ああいう事件が起こった直後だから、一応ね。もし届出を出してないロボットがセンサーに引っ掛かったら、問題を起こしてなくても手続きとか色々あって面倒だから一応言っとくわ」  私は店の出口に目を向ける。客用の出入り口はあれだけのようだ。あそこをマグノリアが通ったらどうなるのだろうか。ブザーが鳴るのか、出口が開かなくなるのか。いずれにせよ、今購入した食料品は店の中に置いていくべきかもしれない。ミミズクは……可能な限り持っていこう。  店の中にも外にも、警備員らしき人影は見当たらない。ブザーが鳴るだけなら、店を出た直後に走ればなんとか逃げ切れるだろう。もし出口が閉まったら、強行突破するしかない。出口の扉はガラス製、あれならマグノリアの力で割れそうだ。私は店内を見回して他に外へ繋がるルートがないか確認する。  ふと横を見ると、側に居たはずのマグノリアが消えていた。  マグノリアは出口に向かって歩いている。私は声をあげかけて、やめた。ここから声を掛けると店内の人間の注目を集めてしまう。私は小走りで出口へ向かう。しかしマグノリアは一定の速さで歩みを進め、私が辿り着くよりも先に、出口に到達してしまった。  緑々しい森の中で無数に広がる円形の光。木漏れ日は太陽の形をそのまま投影するので、木の葉の形に係わらず常に円形だ。 「リリフローラ、今は陽射しが特に強い時間帯です。熱中症にお気をつけください」マグノリアが空を仰ぎ見ながら言った。私も同じように太陽に視線を向けるが、太陽の光は眩しすぎてとても直視できない。 「お前は太陽を直視し続けても苦痛を感じないのか?」 「はい」マグノリアは私の方を向いて返答した後、「問題ありません」再び太陽を凝視する。  マグノリアがあの店の出口を通った瞬間、私は初老の女性に声を掛けられた。『さっき言ってたあれ、来週からだから。そのミミズク、愛玩用ロボットでしょ? 見たら分かるわよ。預かってる間、ずっと大人しくしてたもんね。愛玩用だからいちいち届出なんか出さないって人多いけど、いま色々とうるさいからね。じゃ、また来てね』初老の女性はそう言って業務に戻った。  私は出口のセンサーが作動していると思い込んでいたが、冷静に考えればそんなものを気にする必要などなかったのだ。あの店には出入り口が一つしかないから、センサーが作動しているなら店に入った時点で既に反応していたはずだ。防犯目的のセンサーなのだから、店を出る時だけチェックするというのは考えられない。だから、あの時すぐに店を出ようとしたマグノリアの判断は正しい。入店時にセンサーで情報を読み取られていた可能性を考慮して、すぐに店を出るべきだった。私に一切の相談を持ちかけずに出口を通ったのは少し行き過ぎた判断であるようにも思えるが、もしマグノリアの所有者を登録していないことが店側に露呈していたなら、小細工を施すだけ無駄だっただろう。ロボットは常に冷静だ、情に絆されて判断を見誤ることがない。しかし先ほどのマグノリアの言動の中に、一つ理解できない点があった。 「おい、さっき『私とマグノリアは似ているとよく言われるか』という質問をされた時、お前は何故『よく言われる』と答えたんだ。あそこで事実を捻じ曲げる必要はなかっただろう」 「あの質問には肯定しておいたほうが、私がより人間らしく見えると判断しました。私が人間であるなら、同じ人間であるリリフローラと類似しているはずです」  こいつには人間は全て同じように見えているのだろうか。私と他の人間を区別して対応していたから、人間の個体を識別することは可能だと思うが、感覚的には同じに見えるのかもしれない。というかマグノリアには感覚機能がないのか。 「……んにゃ~ん」  右手に持っているケージの中でミミズクが気怠そうに鳴いた。私はこのミミズクに出会った当初、他のミミズクとの区別がつかなかったことを思い出す。 「ちょっと待て」私は片手を横に突き出してマグノリアの歩行を制止する。両手に全ての買い物袋を携えたマグノリアが立ち止まって私を見る。  苔が生えた地面にケージを置いて扉を開ける。周りに人がいなければ、もうミミズクをケージに閉じ込めておく必要はない。  街で会ったお喋りなババアにミミズクのことを"愛玩用ロボット"と言われた時、私は心の中でミミズクが"ロボット"であることを否定したが、"愛玩用"という言葉に関しては肯定の念も否定の念も湧いてこなかった。私にとってミミズクはどういう存在なのだろうか。私は無意識のうちに、ミミズクにペットという役割を与えていたのかもしれない。ペットという概念は嫌いだが、嫌う事と拒絶する事は別物だ。  ケージから出たミミズクは明後日の方向をむいて首をぐるぐると回している。ミミズクが何を考えているのかよく分からない。  私は、マグノリアが街で脱いだ服を引っ張って自分の腕に巻きつける。ミミズクの側にしゃがみ、一回り膨らんだ腕を差し出す。こちらに視線を向けて戸惑ったようにステップを踏むミミズク。やはりミミズクは私の腕には止まらない。マグノリアの腕にはよく止まっているのに、私の腕に止まったことは一度もない。ミミズクは快適な環境を求めて私のもとへやってきた。その環境を構成する要素に私という人間は含まれているのだろうか。私は腕を更に突き出す。ミミズクはその動きに反応して首を傾けるが、腕に乗ってこようとはしない。私がミミズクの要求に応えてやるのは、ミミズクに対して憐みの念を抱いているからに他ならない。私とミミズクの間にあるものが一方的な憐みであっても構わない。例えそうであったとしても、私はミミズクを拒絶するつもりはない。ただ、私とミミズクを繋ぎ止めているものの正体をはっきりさせておきたかった。何を考えているのか分からない奴に振り回されるのはもう沢山だ。  無数に広がっていた木漏れ日が一斉に薄れていく。重圧感のある雲が太陽の光を遮断し、森から全ての煌めきが消えた。体感温度は下がったが、私の手の中は火照ってじんわりと汗ばんでいる。 「何をしているのですか」黙って立ちすくんでいたマグノリアが言った。「ミミズクを持ち運ぶのであれば、ケージに入れて持ち運ぶことをお勧めします」  乾いた風が木の葉を撫でながら通り抜けていく。  私はミミズクを追い払うように手首を振ってケージの中へ誘導する。私の口から漏れた溜め息は風の音に掻き消された。私がペットという概念を嫌っている理由はこういうところにある。飼い主はひとりでにペットへの情を募らせて勝手に期待感を増長させる。やがて自分の中で処理しきれなくなった期待から不満が漏れだして、期待の対象であるペットに責任があるかのような錯覚を覚える。しかし冷静になって考えるとペットには悪意がないことに思い至り、自分の中の情が萎んで鈍色の自己嫌悪だけが底に溜まる。  ミミズクがケージの中に納まったのを見て扉を閉めたその瞬間、ミミズクが甲高い声で鳴き出した。しきりに羽を動かしてケージの中で暴れている。私はすぐに扉を開ける。中からミミズクが飛び出す。ストレスが溜まっていたのかもしれない。街に居る間、ずっとケージの中で大人しくしていたが、表に出さなかっただけで、本当は内にストレスを蓄積していたのかもしれない。  ミミズクが素早く飛び上がってマグノリアの腕に乗った。マグノリアは買い物袋を携えたまま腕を胸の高さまで持ち上げている。私はマグノリアの顔を見る。私が作って嵌め込んだ人工の碧い眼球、その瞳からは何も読み取れない。 「リリフローラ、どうかしましたか」 「いや、なんでもない」 「ミミズクはこのまま私が運んでよろしいですか」  マグノリアも私の瞳からは何も読み取っていないのだろう。肝心なことは何も。 「お前の腕にミミズクが止まるのは何故だと思う?」だから、意思を疎通したいと思ったら、単刀直入に訊かなくてはならない。 「私の腕の形状が、普段ミミズクが利用している止まり木に類似しているからだと考えられます」 「私の腕にミミズクが止まらないのは何故だと思う」 「リリフローラの腕は、止まり木の形状からかけ離れています」  私は自分の腕とマグノリアの腕を見比べる。太さや色に多少の違いはあるが、ゴツゴツした止まり木を基準とするなら、私たちの腕に大きな違いがあるとは思えない。それに、私もマグノリアも長袖の服を着ることが多い。 「この腕とお前の腕、どこが違うんだ」私は自分の腕を見つめながら言う。 「角度が違います。リリフローラは肘を82度曲げて指を握り込んでいますが、家にある止まり木を模倣するのであれば、肘は26度です。手首は下に12度、人差指と中指を少し突き出し、残りの指は軽く握ります」  私はマグノリアの腕を手本にしながら、言われた通りに腕を曲げる。この角度をキープしていると二の腕に負担が掛かりそうだ。 「その形状を保ち続けてください」  マグノリアが空中で腕を軽くバウンドさせると、その腕に乗っていたミミズクが羽ばたいて―― 「あ……」  そのまま私の腕に飛び移った。 「このミミズクは、腕を止まり木の形状に寄せている時しか乗りません」  マグノリアが表情のない顔を向けて言った。私は思わず緩んだ口元を真一文字に結ぶ。 「そ、そうなのか。ということは、こいつは今、私の腕を止まり木と認識しているんだな。無礼な鳥め」 「リリフローラの腕を止まり木と混同することは、礼儀に外れますか」 「当たり前だ馬鹿。まさか、お前も私の腕と木の区別がつかん訳ではなかろうな。お前もこのミミズク以上に無礼な時があるぞ」 「家に帰り着いたら、礼儀に関する情報をインプットします」 「……いや、それはインプットしなくていい」  マグノリアが礼儀作法を学んだら今以上に鬱陶しくなりそうだ。私の言動を咎め始めたらたまったもんじゃない。 「さっさと家に帰るぞ。お前が前を歩け」 「はい」  マグノリアが買い物袋を握ったまま器用に人差指と親指を伸ばしてケージに触れる。 「待て、ケージは私が持っていく」私はミミズクが乗っていないほうの手で空のケージを掴む。「それから、買い物袋をひとつ持ってやる」 「この程度の重量であれば、私一人で全て持ち運べます」 「お前は大丈夫でも、袋の耐久力に不安がある。袋同士がぶつかって破れたら面倒だからな。ほら、さっさと貸せ」  私はケージを持っている手の指を伸ばして、マグノリアが差し出した買い物袋に通す。指を握り込むと、指の付け根に袋の持ち手が食い込んだ。「未登録の植物を観察しながら歩いても構わんが、日没までに帰りつけるようにペースを調節しろよ」マグノリアの背中に向けて言った。ミミズクは私の腕に乗ったまま大人しくしている、思ったよりも軽い。これなら、もう片方の手で握っている買い物袋のほうがよほど重い。でこぼこした買い物袋からはヒゲを生やしたトウモロコシが突き出ていて、時折私の手首を撫でる。  前方の空にはまだ霞色の雲が泳いでいる。私は姿勢を崩さないようにゆっくりと歩きながら、雲の向こう側にある太陽を凝視した。  マグノリアという名前は飽くまでも便宜的に名づけたものだから長期に渡って使い続けるつもりはさらさらなかったのだが、なんやかんやでマグノリアという名前は定着してしまった。定着したといっても、マグノリアと一対一で会話している時に名前を呼ぶことは滅多にないから、呼び名が定着したというよりも、単に私の胸臆にマグノリアという名が納まったに過ぎない。それでも固有名詞があるのとないのでは、その対象の見え方が大きく違ってくる。マグノリアという名称に一旦慣れると、今までマグノリアのことをアンドロイドと呼称していたことのほうが不自然に思えてくる。それだけマグノリアが機械と人間の境界に近づいてきたということかもしれない。 「トウモロコシとブロッコリーのグラタンです」  湯気の立った耐熱皿が私の前にコトンと置かれる。その耐熱皿を中心に、テーブルの上にはバラエティに富んだ料理が並べられている。春キャベツとトウモロコシのサラダに、トウモロコシのごま和え、それと揚げ団子。 「おい、この団子の中身は」 「海老です」 「ほう」 「衣はコーンフレークです」  仮にマグノリアが人間であれば、私はこのトウモロコシ尽くしのメニューを嫌がらせの一種と受け取っていただろう。トウモロコシの在庫が尽きるまでこれが続くのだろうか。ごま和えをつまんで口に入れる。味は悪くないから、メニューの偏りは辛うじて許してやってもいい。  一旦キッチンに引っ込んだマグノリアが再び姿をみせる。 「この料理で最後です」  ガーリックソテーが置かれる。ナイフで一口大に切って、今度はトウモロコシをどのように使用したのかと訝しげに眺めてみるが、肉の中にも付け合わせにもトウモロコシは見当たらない。しかしトウモロコシソースの可能性もあるから実際に食べてみるまでは安心できない。肉の上にガーリックを載せ、添物のレモンを絞り掛ける。フォークで刺した肉をおもむろに口に運ぶ。少しクセがあるようだが、ガーリックとハーブのお陰で嫌悪感を催すほどの臭みは感じない。 「昨日、トウモロコシ料理が多すぎるとドクター・エリスが仰っていたので、トウモロコシを使わずにドクター・エリスの好みに合いそうなものをこしらえてみました」  今までしつこく味の感想を訊いて私の好みに関するデータを蓄積しただけあって、確かにこの料理は口に合う。更にフォークで刺して口に運ぶ。私は本来クセのある食材を好まないが、これはクセを抑えて特有の旨味を抽出しているのでなかなかいける。以前マグノリアに、失敗してもいいからお前自身の判断で行動しろ、と告げたことを思い出す。マグノリアは私の好みに合わない食材を二度以上使用したことがない。また、それらの食材に味の特徴が類似しているものも殆ど使わない。そのマグノリアがこのような一見私が拒みそうな食材を選んだということは、自分の調理法に余程の自信があったか、もしくは私に料理を拒まれる覚悟で出してきたのだろう。マグノリアの思考は着実に人間に近づいている。 「これは何の肉なんだ」 「ミミズクです。以前、ドクター・エリスにミミズクを処分していいかとお尋ねした際、処分してもいいと仰っていたので、ソテーにしてみました」  マグノリアが何を言っているのか分からなかった。 「ミミズクソテーの味を10段階で評価してください」  ソテーを突き刺していたフォークが私の手から離れて皿の外に倒れる。ソテーに纏わりついている油が跳ねて頬や首に飛び散る。ガーリックとハーブの香りに覆われていた鳥肉の臭みが鼻腔に届いて、真っ白だった私の脳裏に烏羽色の染みが拡がっていく。 「ドクター・エリス、どうかしましたか」  横目に映るマグノリアの顔には表情がない。笑顔でもなければ真顔でもない。私はその不気味な顔から目を逸らして足早に部屋を出る。居間、キッチン、寝室、物置部屋、地下室、浴室、トイレ、リュックの中、バッグの中、ポシェットの中。家中を捜し回るが、ミミズクの姿はどこにも見当たらない。ミミズクは一か所に留まり続けることが嫌いで好き勝手に家の中を動き回っていたが、自分から家の外に出たことは一度もなかった。しかし今まで一度もなかったからといって、今現在ミミズクが外に出ていないという保証はどこにもない。玄関の扉を押して前のめりに外へ出る。土の上を歩き始めた直後に片方の靴が脱げて尖った石のようなものを踏みつけたが痛みはすぐに引いた。家の周りには緑の木々が広がっている。葉擦れの音がひどくやかましい。ミミズクが自発的に家の外に出たとしたら、家の近辺にはもう居ないだろう。きっと野性に戻っている。私が知らない場所で私が知らない動物達に混じって私が知らない生活を営んでいるはずだ。そうだ、そうに違いない。マグノリアはあんなことを言っていたが、私が思い違いをしているのかもしれない。マグノリアが思い違いをしている可能性もある。アンドロイドは嘘をつかないが、思い違いをすることはある。そうだ、きっとそうだ。キッチンを探した時も、それらしき残骸はどこにも見当たらなかったではないか。  私は思案している間ずっと足を動かしていて自分でもどこに向かって歩いているのか分かっていなかったがどうやら家の壁沿いに進んでいるようだった。靴が脱げていないほうの足から脂汗が滲み出て靴と足が擦れるたびに寒気が増していく。胸のあたりからも脂汗が出てきて肌にべったりと張りついたシャツが気持ち悪い。全身の体温が急激に失われていく。頭の隅で金属を叩いたような不快な音が鳴っている。頭をからっぽにして何も考えないようにしようと思ったが金属音がそれを許してくれなかった。脳は混乱しているのに手足は絡まることなくスムーズにスムーズにスムーズに動く。手足が金属音に支配されている。角をひとつ曲がりふたつ曲がり金属音と私は家の裏手に到着する。  私はひとりでに視界が遠ざかっていくような錯覚を覚えてまるでこじんまりとしたテレビ画面を見ているような気分になる。数瞬の間をおいてようやく目の前にあるものの全体像が浮かび上がってくる。錆色の土の上に散らばった羽毛とステンレスのボウルに入ったどす黒い血、普段マグノリアが掃除をする時に使用している青いバケツ、バケツの中にはぐちゃぐちゃしたものが放り込まれていた。一瞬それがなんなのか分からなかったがバケツを持ち上げて顔を近づけてみると臭いで内臓だと分かった。私はバケツの中に何かが潜んでいるような気がして思わずバケツから手を離した。バケツが地面に転がって中から鉄くさい血と内臓が零れる。内臓に続いてゴロンと転がり出た物があった、ミミズクの頭。どろんとしたコーラルのような眼球が私を見つめている。片目のくぼみに溜まっている血が垂れて一本の筋になった。目から垂れた血は涙と形容できるほど綺麗なものではなかった。ただの赤黒い血。ミミズクの頭は血や内臓や泥に塗れて雑然としていてこれが私の知るミミズクの頭なのかどうか私には判断がついていないはずなのに私の心臓はバクバクバクバクバクバクとセンサーのように反応していた。首の下に本来あるはずの肉が今どこにあるのかを想像して喉の奥に締め付けられるような圧迫感を感じた。もうこれ以上この場に居たくない。  振り向いて足を踏み出す。進んでも進んでも歩いているという実感がない。土を踏んでいるという感覚しかない。前方にあるもの全てが遠い。私は動物の死骸を見るのはこれが初めてではないし自分で殺した経験も数えきれない程ある。私はこんなことで動じるような柔な人間ではないと自分に言い聞かせて土を踏む。  玄関を開けるとマグノリアが立っていた。食事がまだ残っていますがどうしますか。私はマグノリアの言葉を無視して廊下を進む。マグノリアが後ろからついてきているのが気配で分かる。一定の間隔で聞こえるメトロノームのような足音、その音に反発するように私の心臓の脈拍は乱れて不規則なリズムを刻む。身体の重心が左に偏って足がもつれる、視界がぐにゃりと歪み、自分の身体が傾いているのか地面が傾いているのか判断がつかなくなる。前方に扉が見える、扉は歪曲していて距離感が掴めない、後どのぐらい歩けば扉に辿り着くだろうか、もしかしたら一生辿り着けないかもしれない、気持ちが悪い、もう限界だ、私はその場に膝をついて目を瞑り口を開いてビシャビシャと嘔吐した。気持ちが悪い。涙と一緒に出た吐瀉物が床に広がって指の隙間に流れ込んだ。トウモロコシの粒と胃液に混じった焦げ茶色の肉片が見える。見たくなかったが見えてしまった。再び目を瞑る。瞼の裏にモノクロ写真のような色のない肉片が浮かんできて私は思わず目を見開いた。ずっと目を閉じていたら瞼の裏で膨れ上がった色のない肉片が脳と同化しそうだった。気持ちが悪い。込み上げてきたものを立て続けに吐いていると四度目の嘔吐で苦い胆汁が出た。 「ドクター・エリス、先程の料理はお口に合いませんでしたか。胃の調子が優れないようなので、お粥でも作りましょうか。トウモロコシがまだ残っているのでお粥にトウモロコシを混ぜましょうか」  私は何か言おうと思って息を吸い込んだが具体的な言葉は何も出てこなかった。膝をついたまま赤ん坊のように廊下を進んでトイレの扉を開けて中に入り鍵を掛ける。この家にある個室で鍵が掛かるのはこのトイレだけだ。本当はミミズクの残骸を見た直後にその場で吐いてしまいたかったが、一刻も早くあの場所を離れたかったのと、吐いている途中でマグノリアが様子を見にきたら逃げ場がないと思ったので、吐くのはトイレまで我慢しようと決めた。しかし結局マグノリアに吐く姿を見られてしまった。こんなことなら家に戻らず森で吐けばよかった。マグノリアが扉の向こうで声を発している。私は耳を塞いだ。何も聞きたくないし何も言いたくない。言葉を交わしたところで何も解決しないことは分かりきっている。私が先程のマグノリアの行動を咎めたが最後、マグノリアはその理由を理解するまで私に何度も質問を重ねるだろう。しかしいくら言葉をぶつけたところであいつには事の本質が伝わらない。ミミズクは私のペットだから殺すな、そのように命令することは簡単だが、何故ミミズクを殺してはいけないのか、という疑問の答えをあいつに植えつけることはできない。言葉は単なる記号として伝わっていつまでも同じ形であいつの中に留まり続ける。仮にあいつが成長する人間であればその記号がいつか形を変えることもあるだろうが、あいつは機械だ。機械はどこまでいっても機械だと分かっていたのに、私はマグノリアに勝手な期待を寄せて歪な存在に仕立て上げてしまった。扉の外でマグノリアがまだ何か言葉を発している。扉の鍵を掛けて耳を塞ぐ。それでもあいつの一本調子な声は扉と両手を突き抜けてくる。 「黙れッ!」拳を扉に叩きつける。扉の向こう側から聞こえていた声が途絶える。徐々に遠ざかっていくメトロノームのような足音だけが私の耳の中に響いていた。  肌寒さを感じて目を覚ます。視界が暗い。トイレの中で眠っていたようだ。腹部に筋肉痛のような鈍い痛みが残っている。おまけに口の中もパサパサしていて臭くて気持ちが悪い。手探りで扉を開けて外へ出る。真っ暗な廊下。トイレの電灯をつけてその明かりを頼りに薄暗い廊下を進む。廊下の電灯をつけたところで私はようやく現実感を取り戻す。  廊下に吐いたはずの吐瀉物はどこにも見当たらない。目をこらすと、一か所だけ色の変わっている床があった。マグノリアが拭き取ったのだろうか。  洗面所で口をすすいで歯を磨き、口内の汚れを吐き捨てる。マグノリアがミミズクを殺した。あまり思い出したくはないが、それを過去の出来事として冷静に捉えられるぐらいには気分が落ち着いていた。  足音を立てないように摺り足で廊下を進み、部屋を覗き込む。マグノリアがいつものように直立したまま動作を停止していた。特に用事がなければ、私の睡眠時間に合わせて自発的に動作を停止するように言いつけてある。朝までこの状態を保ち続けるだろう。  私はキッチンへ行って少量のナッツと水を胃に放り込んだ後、コーヒーを淹れる。交通の便が悪いこの家ではいちいちコーヒー豆の鮮度にこだわっていられない。だから私が常用しているのはインスタントコーヒーだが、こんなものはいくら不味かろうと三日も続けて飲めば舌が慣れる。ソファに座って一口飲む。いつもの薫りといつもの温度といつもの味が口内に広がって喉の奥に消える。瞼を閉じてもう一口すする。瞼の裏には何も浮かんでこない。  ミミズクのことで自分があそこまで取り乱すとは思わなかった。ミミズクに情が移ったことは自覚していたが、私にとってミミズクとの関係は必ずしも必要なものではなかった。私はミミズクが死んだことに哀しみを感じているが、この哀しみは穏やかなものだ。私はミミズクとの関係が切れたことに動揺したのではなく、マグノリアとミミズクの間にあると思い込んでいた結び付きが実際は無かったことにショックを受けて動揺したのだ。私はミミズクをペットとして飼っているつもりだったが、それを口に出したことは一度もない。マグノリアはミミズクを家畜と認識していたのかもしれない。私自身、ミミズクをペットとして意識し始めたのはつい最近のことだから、マグノリアが私の心情を汲み取れなかったのは無理もない。しかし、マグノリアが私の心情を理解していなかったとしても、ミミズクの死は私が事前に気を配っていれば防げたはずだった。マグノリアに普遍的な倫理観や常識を予めインプットしておくか、ミミズクに危害を加えるなと一言命令しておけば、それで防げた。だが、私は敢えてそれをしなかった。マグノリアが失敗から学ぶことを想定して、事前に与える情報を制限していたのだ。マグノリアは今回の一件から何かを学びとれただろうか。マグノリアには自分が過ちを犯したという認識すらないだろう。ミミズクを殺したことを"失敗"とするのは、飽くまでも私の主観だ。私とミミズクとマグノリアの間にあった情をマグノリアが理解できずに断ち切ってしまった、それが今回の失敗だ。そしてこれはマグノリアの失敗ではなく、私の失敗だ。マグノリアには感情がないのだから、他者の情を理解できようはずもない。私はその事実から目を逸らして、アンドロイドに対して訳の分からない馬鹿げた幻想を抱いていたのだ。  カップに少しだけ残ったコーヒーをシンクに流して玄関へ向かう。綺麗に揃えられた靴を履いて家の外に出る。  割れたビスケットのような月が出ていた。  切り株の上に腰を下ろす。雑多な鳥の鳴き声が聞こえる。鳴き声だけではどのような種類の鳥が鳴いているのか分からない。私にとってそれは知る必要のない知識だ。猫のような鳴き声を発するミミズクが居るということも、多分、知る必要のない知識だった。今夜は風が無い。風が無い夜の森は視覚的には閑静だがそのぶん聴覚が余計に研ぎ澄まされて鳥や虫の複合的な鳴き声がザンザカザンザカ耳に届く。森に生息する夜行性の鳥が絶滅すれば、季節の虫の声だけが残って、ちょうどいい静けさになるだろう。そういえばミミズクも基本的に夜行性のはずだが、あいつは昼に活動することが多かった。  私は足もとに生えている細長い草を千切る。草から視線を外して森の奥を見据えながら手当たり次第に千切る。  朝になればマグノリアが活動を再開する。その前にマグノリアの電源を落としておくべきだろうか。私は昨日までと同じようにマグノリアに接する自信がない。しかし、マグノリアは昨日までと同じように私に接してくるだろう。明日も明後日も未来永劫変わることなく同じように接してくるだろう。今日を境に私の中で何かが変わって私の中に居るマグノリアがその影響を受けたとしても、現実のマグノリアには何の影響も及ぼさない。それならばいっそ、マグノリアを処分して関係を断ち切ってしまえばいいのではないか。マグノリアは自分が処分されることを知ったとしても何も感じないだろう。マグノリアは、私が望んだという理由でそれに従う。そこにマグノリアの意思はない。だから、マグノリアをどうするかは、私が考えるしかない。私が選択して私が実行するしかない。私はこのままマグノリアを処分することを望んでいるのだろうか。  マグノリアを変える方法が一つだけある。マグノリアに感情機能を搭載するのだ。人間のエゴから生まれたペット文化の本質を理解させる為には、マグノリアに自我を持たせるしかない。そんなことは最初から分かっていたが、感情機能が扱いの難しい機能であることも重々承知していたので、私は感情の実装を先送りにしていた。私は、アンドロイドは内面的にも人間を模倣すべきだなどと偉そうなことを考えつつ、人間らしさの要である感情を搭載する覚悟を持てなかった。……覚悟を持てなかったことは確かだが、感情の実装を先送りにしていた理由は、それだけではないような気がする。感情とは一体なんなのか。私は、"感情機能"という言葉に、胡散臭さを感じているのかもしれない。誰も解明できていないものを模倣したところで、まるで見当違いの代物が出来上がるのではないか。感情機能を開発しようと考えた人間もそんなことは分かったうえで開発を進めたのだろうが、果たして感情というデリケートなモノを、ゴマカシで間に合わせてしまっていいものだろうか。偽物の肉体に本物の感情が宿ることは絶対に無い、とは言い切れないが、その前に偽物の感情を宿してしまったとしたら、本物の感情はどこへいくのだろうか。  感情を解明することはできないが、感情機能を説明することはできる。今のマグノリアは様々な事象から学習して知識を取り込んでいる。一見すれば自らの意思で行動しているように見えるが、それは意思ではなくて、ただ周りの人間に同調しているだけなのだ。感情がなくとも学習して同調することはできる。感情機能とは、学習したことにそのつど疑問を抱かせ、時に反発させる働きを持った機能だ。では何を基準に反発を決定するかというと、それは、記憶と立場と現代の社会的常識だ。感情機能はただ反発を促す為だけのものではない。反発を嫌なモノとして記憶することで、対照的な同調が喜びとなる。  感情機能は、数多あるロボット産業の中でも、ごく一部の分野でしか利用されていない。ロボットに感情があれば表現の手段は豊かになるが、そのぶん行動の予測が難しくなる。ロボットが人間の道具である以上、人間の制御を阻害するような機能は邪魔でしかない。感情機能を搭載しているロボットは主に二種類。愛玩用ロボットと、性処理用アンドロイド。これらのロボットは人間とのコミュニケーションを目的として作られているから、制御のしやすさよりも、表現方法の豊かさを優先している。愛玩用ロボットの方は動物を模倣しているから、感情の発現もかなり大雑把だ。動物は言葉を喋らないし、人間社会のルールに則った特有の感情表現を理解させる必要もない。感情機能を搭載しているといっても、愛玩用ロボットの感情は人間の繊細な感情には程遠い。問題は性処理用アンドロイド――セクサロイドの方だ。セクサロイドにはセックスの効果を高める為に感情機能が搭載されているが、感情機能によって芽生えた自我が自己矛盾を引き起こし、その矛盾を処理しきれずに暴走して人間に危害を加える事故が多発したので、現在はセクサロイドの感情機能にリミッターを掛けることが義務付けられている。リミッターを掛けることがセクサロイドの行動にどういった変化をもたらすのだろうか。確か軍から持ち出してきた資料の中に、感情機能に関するデータがあったはずだ。  私は切り株から腰を上げる。草を千切っていた指が緑色に変色している。汚れた指同士を擦り合わせると、青臭いにおいが昇ってきてすぐに消えた。  アンドロイドの感情機能に関するデータを呼び出し、モニターに目を走らせる。感情の分類、感情を絡めた思考回路の構築、不合理な行動の許容度。  一通りチェックし終えたが、リミッターが及ぼす影響の具体的な記述は見当たらない。感情機能のリミッターを採用しているセクサロイドは民間の企業が製造しているから、軍から持ち出した資料にリミッターの記述がないのは当然かもしれない。軍事用アンドロイドに感情は必要ない。他の経路で入手した資料が残っていないだろうか。私は考え得るワードを片っ端から入力してファイルを検索する。セクサロイドの販促ビデオが引っ掛かった。再生。  映像は主観視点で始まった。薄暗い、ムードのある部屋。ベッドの上。映像は手ブレを起こしている。  画面が白に染まり、中央に「セクサロイド・セフィ」とテロップが表示される。再びベッド上の映像に戻る。ベッドの上に端正な顔立ちの半裸女性が現れると同時に、ボサノバが流れ始める。  半裸女性はカメラに近寄り、跨るような仕草の後、微笑を浮かべて腰を動かし始める。ボサノバのリズムに合わせて腰を振っている。半裸女性の頬が紅潮して上半身が少し仰け反り、小刻みに震えた。絶頂に達したということだろうか。そして画面が白に染まり、「喜び」とテロップが表示される。再び半裸女性が映り、先程と同じように腰を振り始める。不意に画面の手前から腕が伸びてきて、半裸女性の首を絞めた。それでも半裸女性は表情を崩すことなく微笑み続けている。しばらく首を絞め続けたあと、腕が手前に引っ込む。  再び腕が映る。今度は片手にナイフを持っている。左手を半裸女性の頬に添え、右手のナイフで顔に切りつけた。半裸女性はニッコリ笑って、頬に添えられた左手を自分の手で包み込んだ。両腕がそっと引かれる。半裸女性は穏やかに笑い続けている。ナイフで切った箇所には深い切れ目が入っていた。血は一滴も流れていないし、痛がってもいない。半裸女性が目を閉じて、キスをせがむように口をすぼめたところで、再び画面が白に染まる。画面中央に「悲しみ」の文字。  途端に半裸女性の表情が変化した。紅潮していた頬は青ざめ、眉頭が下がった。ボサノバのリズムに合わせて楽しそうに動かしていた腰つきも、次第に乱れていった。画面の手前から伸びた腕が、再び半裸女性の顔を切る。今度はあからさまに痛がっている。大きな動きこそ見せないものの、目を瞑って歯を食いしばり、痛みに必死に耐えている様子が窺える。ナイフを持った手が引っ込む。半裸女性の怯えた表情をズームアップしながら画面は白に染まる。画面中央に「喜び」の文字。  再び半裸女性が映った。頬に残った二箇所の傷はそのままだったが、表情は楽しそうな笑顔に戻っていた。脅されて無理に笑っているふうではなく、心から性行為を楽しんでいるといった感じ。  画面が移り変わる。半裸女性が拳を口元にあて、画面の下側に向かって顔を前後させている。フェラチオをしているということだろうか。しばらく前後運動を繰り返した後、半裸女性の動きが止まる。片目を瞑り、口に精液を流し込まれるような感じで喉を震わせている。口に溜まった精液を大事そうに飲み込むような仕草の後、画面に向かってニッコリ微笑んだ。画面が白に染まる。「安全」の文字。  口を大きく開けた半裸女性の歯を、手前から伸びた手がグニグニと押す。人間の硬い歯とは違った、弾力のある歯だった。半裸女性の指に付いた爪も、同じように弾力があった。セクサロイドの安全性をアピールしているのだろうか。  半裸女性が画面に向かってヒラヒラと手を振ったところで映像の再生が終わった。  今のが感情機能を搭載したセクサロイドなのだろうか。映像の中の女性は表情や仕草こそ豊かだったが、言葉は一言も発しなかったし、これだけでは感情機能やリミッターのことはよく分からない。あれなら、愛玩動物とあまり差がないように思える。これが私の求めているものなのだろうか。  馬鹿な。人の形をした愛玩動物がいてたまるか。 ■■■3■■■  私は数週間かけてマグノリアの機能を追加した。感情機能。触覚・痛覚・温覚・冷覚などの皮膚感覚機能。  感情機能を搭載したマグノリアは見違えるほどの変貌を遂げた。急激に発達した感受性はマグノリアの仕草や表情に変化をもたらし、感情表現のバリエーションは日に日に豊かになっていった。マグノリアは様々な物体や現象に興味を示した。私から見てそれがどんなにつまらないものでも、マグノリアからすれば新鮮で面白味があるようだった。  とりわけ自然が好きなようで、マグノリアは家の周りにある植物の名称と生えている場所をあっという間に把握した。それらの植物を、家事の合間を縫って毎日飽きずに眺めていた。マグノリアの感情表現は、ややオーバーではあるものの、感情の方向性自体は自然であるように思えた。受け答えもごく自然で、以前のようにトンチンカンな言動に及ぶことは殆どなくなった。たまに訳の分からない言動を見せたとしても、私がそれを指摘してやるとマグノリアはすぐに問題点を理解して、ひとりでに言動を修正していった。  感情機能を搭載してから一週間ほど経った頃、雨が降った。 「あれは何ですか? 雨ですか? 雨ですよね?」  マグノリアが窓の外を指しながら言った。 「凝結した水蒸気が上昇気流を振り切って落下することで現れるという噂の雨ですか?」 「噂もクソもあるか、雨は初めから明確に雨だ」 「ということは、やはりあれは雨なんですね?」 「雨だ」 「やはり雨だったんですね。これが雨なんですね。飴ではなく雨」 「やかましい。いちいち口に出さんでも分かるわボケナス」  マグノリアは水たまりに広がる波紋を眺めてひっきりなしに驚嘆している。 「ドクター・エリス、俺はね、雨が好きなようです」 「分かったから早く朝食を作れ、腹が減ってかなわん」  マグノリアは私の言葉を無視してキッチンとは反対の方向へ歩き、窓を開けて「おい、何をしている、外に出るな!」窓枠を跨ぐ。  窓から外に出たマグノリアは雨に打たれながら水たまりを眺めてしきりに笑っている。私がいくら呼び戻そうとしても一向に耳を貸さない。感情機能を搭載して以来、マグノリアが私の命令に意見することが何度かあったが、ここまであからさまに無視されたのは初めてだった。私は家の中からマグノリアの名前を呼び続ける。何度呼び掛けたか数えきれないぐらい声を掛けたがマグノリアは依然として言うことを聞かない。  私は玄関で靴を履いて傘を差し、マグノリアの元へ向かった。風が吹いている、ひどい横殴りの雨だ。  傘は全く役に立たなかった。マグノリアは地面に膝をついて、水たまりから雨水をすくっていた。 「ははっ、はははははっ」 「何をしているんだ、おい、マグノリア!」耳元で名前を叫ぶ。 「はっ、ははぎゃぎゃぎゃ」  マグノリアは私のことなど意に介していない様子で忙しなく泥水をすくっている。 「家の中に入れ!」 「ぎゃぎゃっ、ぎゃぎゃっ」  マグノリアの正面にまわって水たまりに膝をつき、肩を揺する。 「私の言うことを聞け! 家の中に入るんだ!」 「ぎゃぎゃっ、あぎゃぎゃぎゃぎゃっ、あぎゃえっ、ぎゃぎゃぎゃぎぎ、はい」  ようやく返事をしたマグノリアの顔面には、樹皮が張り付いたような、無気味な笑みが浮かんでいた。額に付着した泥が垂れて口元に朽葉色の線を引いた。  マグノリアの腕を掴んで家の中に引きずり込んだ。 「身体を拭いてやるから服を脱げ」  いくら待っても脱ぎ始めようとしないので、泥だらけのシャツを無理やり脱がした。ズボンを脱がす為に脚を上げさせようと思って軽く叩いたら、脚はグニャリと折れ曲がりマグノリアは派手に音を立てて転倒した。痛がりながらも、自分が転んだことがおかしくてたまらないといった様子でニヤニヤしながら脚を撫でている。 「痛いのが嫌ならじっとしてろ」 「嫌ではないかもしれません」  マグノリアはそう言って自分の膝を殴り始めた。やめろ、やめろ、おいやめろ、やめろと言っているだろうが。私が四回ほど制止したところでマグノリアは痛みに対する興味が薄れたようで、大人しく衣服を脱いで自分で身体を拭き始めた。 「すみません、お手数をかけます」 「……大丈夫なのか?」 「はい、ありがとうございます。あ、服を着てきます。大丈夫です、自分で取ってこれます、場所は分かってますから」  マグノリアを見送った後、自分の身体を拭いて自室へ向かう。下着を出す為に衣装ケースを開ける。前髪からポタポタと垂れた雨水が下着に吸い込まれた。首筋がひどく冷たい。濡れた下着で髪を拭いて着替えを済ませる。  キッチンのほうから物音が聞こえる。いつもならマグノリアは朝食を作っている時間だ。何かが割れるような大きな音が聞こえて、私は急いでキッチンへ向かった。 「おい……」  マグノリアは衣服や髪から水を滴らせたまま、包丁で芋の芽を抉りとっていた。 「あ、ドクター・エリス」  横を振り向いた拍子にマグノリアの肘が食器棚に当たり、棚はグラグラと揺れて中の皿が落下する。皿はバリンと音を立てて砕け散る。キッチンの床には他にも食器が散乱していた。 「どうして濡れているんだ……また外に出たのか?」 「外には出ていません。窓が開いていたので閉めようとしたんですよ。そしたら濡れてしまって。はは。せっかく着替えたのに」  マグノリアはそう言って、両手を広げて肩の高さまで上げた。マグノリアの手から離れた包丁は床に突き刺さり、芋は勢いよく転がって私の足先で止まった。 「雨はいいですね、音とか。いいですよね、雨」  包丁を拾おうとしてよろけたマグノリアが食器棚の扉を掴む。傾いた棚から零れ落ちたマグカップが砕けてピンクの破片になった。私がいつもコーヒーを飲んでいるピンクのマグカップ。  マグノリアは悪びれた様子もなく、痛がるでもなく、ただニコニコと笑顔を浮かべている。  お前はまた私の大事なものを壊すのか、と思った。そんな考えを浮かべた自分がたまらなく嫌だった。  翌朝、雨はすっかり止んでいて、地面の水たまりも消えていた。マグノリアは私を見るなり昨日の行動を詫びた。マグノリアの左手の親指に被せてある人工皮膚が剥けて骨格が剥き出しになっていたが、マグノリアはその傷には一切触れなかったので、私も何も言わなかった。夜更けにマグノリアが動作を停止するのを待って、新しい皮膚を被せておいた。  マグノリアは自分がとった行動の異常性を理解しているようだったが、また雨が降ると同じ事を繰り返した。雨が降るたびに家の中は濡れそぼって家具が壊れた。 「雨が降ると何故そのようなことが起こると思う?」  からっと晴れた空の下で洗濯物を干すマグノリアに向かって言った。 「俺自身にも理由が分からないんです。視覚や聴覚で雨を意識すると感情が昂ぶって、理性的な判断ができなくなります」 「感情の昂りを抑えることはできんのか?」 「抑えようという気持ちはあります。しかし、雨が降るとその気持ちが雲散するんです。俺は自分がとるべき行動を見失って、昂った感情の維持を最優先してしまう。これは雨に限ったことではありません。何らかのきっかけで一時的に記憶が薄れることを、感情機能を搭載してから現在に至るまでに、56回、経験しています」  記憶が薄れた直前の出来事をひとつひとつ聞いていく。それらの出来事にはある共通点があった。全て、マグノリアが感情機能を搭載した直後に体験した出来事だ。それと同じ体験をなぞると、初めて触れた時の記憶が呼び覚まされて、感情が異様に昂るのだろう。私はマグノリアに表れたこの現象を、どう受け止めていいか分からなかった。  窓を開ける。窓ガラスが押し上げられたことで外の森にうじゃうじゃと生息している虫の声がより鮮明になって脳に届く。家の中に居ると、じっとしていても全身から汗が噴き出すほど蒸し暑い。夏の暑さがやってきた。  空の向こうから濁り雲が迫ってくる。夕立がくるかもしれない。  マグノリアは相変わらず雨が降ると我を忘れる。夏場に雨の到来を喜ぶことは自然な行為かもしれないが、喜び方が度を過ぎている。マグノリアは決まって動物や乳児のようなハチャメチャな喜び方をする。時が経てば初めて雨を体験した時の感動も薄れ、雨に対して正常な思考を保てるかもしれない。私はそう考えてマグノリアに何の処置も施さずにただ時期が訪れるのを待っていた。しかし、マグノリアは一向に変わらなかった。  マグノリアの異常な感情の昂りが、雨を初めて体験した時の記憶に起因しているのは明らかだ。感性がまだ発達していない時期に受けた強い刺激が、今もメモリーの中に鮮烈に残っているのだ。マグノリアの記憶を遡って雨が降った時の記憶を選んで消去していけば、感情の昂りを抑えられるかもしれない。しかし、この問題をそのような方法で矯正することは、果たしてマグノリアにとって良い結果に繋がるだろうか。私はマグノリアに人間らしさを求めて感情機能を搭載したが、マグノリアと接しているうちに、人間らしさというものがよく分からなくなった。人間らしさとはなんだろうか。意識、意思、理性、感情、利己心、情け深さ――頭の中で人間の特徴を思いつく限り並べてみるが、うまくまとめることができない。単一の要素では測れないような気がする。それらの要素を綯い交ぜにした不完全な思考で自分にとって最も豊かな選択をすることが人間らしさだろうか。よく分からないが、そうかもしれない。今のマグノリアには、不完全な思考を手に入れる為の感性が備わっている。その状態のマグノリアに私が製作者として手を加えることは、アンドロイドの人間らしさを否定することになるのではないか。  問題は、マグノリアが抱えている欠点をどう捉えるか、ということだ。雨が降って騒ぐ行為を病気と捉えるなら、アンドロイドにとってそれは故障ということになり、修理の必要性が出てくる。しかしそれを病気ではなく個性と捉えるなら、矯正はすなわち人格の破壊に繋がる。 「ドクター・エリス」不意にマグノリアが声をあげた。「日に日に気温が上昇していきます」 「ああ……それがどうした」 「ドクター・エリス、俺はね、暑さが分かるんですよ、皮膚で暑さを感じるんですよ。さっきドクター・エリスが窓を開けたことで、部屋の中に風が吹き込んで体感温度が下がりました。俺には人間に近い体温が備わっている。俺はこの体温を維持する為に一定のエネルギーを消費し続けています。つまり俺が今感じているこの体温には、エネルギーを注ぐだけの価値があるってことですよね? 俺に体温がある理由は一体なんなんでしょうか?」  私の顔から流れた汗が首筋を伝う。  マグノリアは汗を一滴も垂らしていない。一粒も汗をかいていない。 「……人間がアンドロイドの体に触れた際、アンドロイドの肌が熱すぎたり冷たすぎたりすると、ショックを受けるからだ」 「では、俺自身が体温を感じることにはどのような意味があるんでしょうか?」 「それは……」  マグノリアの感覚機能が正常に働いていれば、マグノリアは窓から吹き込む涼しい風に心地良さを感じているはずだ。その心地良さは、体温がより適温に近づいていることを示すサインのようなものだ。しかしマグノリアが疑問に思っているのはそういうことではなく、生物ではない自分が感覚器官を通して心地良さを感じることにどんな意味があるのか、ということだろう。  私は言葉を続ける。「この世に存在する全ての物事に意味が込められている訳ではないんだよ」 「そうですね。しかしドクター・エリス、無意味なものは時に不利益をもたらします。雨が降ることで俺やドクター・エリスは特に利益を得る訳でもないのに、俺は無意味に喜んで時間とエネルギーを浪費します。ドクター・エリスがその問題を見過ごしている理由が、いくら考えても俺には分からないんです」 「お前はその問題をどう感じているんだ」 「問題は解決すべきだと考えます」 「一つの問題を修復することで別の部分に綻びが生じるとしてもか」 「新たに表れる問題の重さによります。ドクター・エリスはその新たな問題と現存の問題を天秤にかけて、現状を維持すべきだと判断されたんですか?」 「いや……そういう訳ではないんだが……」 「でしたら、埋められる欠点は早急に埋めるべきです。いずれにせよ、欠点を放置しておくことは問題の更なる深刻化を招きます」 「お前はその欠点を埋めることに抵抗はないのか? 雨はお前にとって喜ばしいものであって、なにも恐怖や苦痛を感じている訳ではないんだろう」 「確かに雨が降っている間は楽しいです。一切の苦痛はありません。しかし俺は楽しさを感じている間、自分を制御できなくなります。これはかなり深刻な問題です。ドクター・エリス、俺は雨が止んだ後でいつも思うんです。制御の利かない自分は、もしかしたら自分ではないかもしれないと思うんです。いえ、そう思いたいだけなのかもしれません」  ロボットは制御が利く。制御が利くからロボットだ。では制御の利かないロボットは人間らしいと言えるのか。  感情が絡むと、縺れてよく分からなくなる。 「ドクター・エリス、お願いします。俺が自分で自分を制御できるように、問題点を修復してください。俺は……楽しさの中に恐ろしさを感じているんです」  私はマグノリアの記憶から感情の起伏が激しい部分を抽出して感情の発現が平坦になるように操作した。それ以来、マグノリアが極端な感情の昂りをみせることはなくなった。雨が降ってもマグノリアの反応は正常で、雷が鳴っても正常で、強風が吹いても正常で、家の周りに鹿の大群が現れても正常だった。夏のアジサイが枯れてヒガンバナが赤い花をつけ、季節は秋を迎えた。夏の暑さが和らぐのと同じようにマグノリアの人格は徐々に落ち着いていって、今ではもう単独で買い出しを任せられるほどに安定している。 「只今戻りました」マグノリアがパンパンに膨らんだリュックサックを降ろしながら言う。今日は買い物の量が少し多過ぎたかもしれない。いつもより帰宅時間も若干遅れている。 「リストには含まれていませんでしたが、ピーナッツオイルが安かったので二瓶ほど買ってきました」 「ご苦労。街での活動はどうだ、スムーズか?」 「ええ、みんな俺のことを人間だと思い込んでいます。センサーも外形が特徴的なので遠くから見分けがつきますし、今のところ何も問題はありません」 「そうか。今日の夕飯は私が作るからお前はビデオでも観てろ」 「大丈夫ですよ、俺が作ります。俺は疲労感を感じませんからね。気を遣ってくれたんですか? 珍しいですね」 「き、気なんか遣うか馬鹿。お前が疲れんことぐらい知っとるわ。今日はどうしても食べたいものがあるから自分で作るんだ」 「その食べたい料理を教えて貰えれば俺が作りますよ」 「工程が複雑すぎて他人に教えることはできない」 「料理名は?」 「ぎゃ、ギャバンボン」 「ぎゃばんぼん? 俺のメモリーには記憶されていませんね」 「そうだろう。だから今日は私が作る。お前はどっか行ってろ」 「家の外に花を見に行ってもいいですか?」 「一時間以内に帰ってこいよ」  久々につけたエプロンは、少しほこりくさかった。  マグノリアはきっかり一時間で戻ってきた。ちょうど夕飯も出来上がり、私達はテーブルに向かい合わせで座った。ギャバンボンと称した調味料過多のドロドロした煮込み料理は、見た目からくる期待を裏切らない不味さだった。 「ところで……街で疑問に思ったことがあるんですが」マグノリアは私が食べている料理の皿に視線を落としている。 「街でアンドロイドを見かけました。彼らには感情機能が搭載されておらず、自分がアンドロイドであることを隠そうともしないので、俺はすぐに人間と彼らを見分けることができました」  街で見かけたということは、労働用のアンドロイドだろう。 「彼らにはそれぞれ明確な役割が与えられていました。店員、作業員、調理師など……。彼らの役割には共通点がありました。人間の生業と同じだということです」 「そうだな。非人型のロボットは主に人間に出来ない特殊な業務を担当しているが、人型のアンドロイドは人間に出来ることを人間と同じようにこなしている」  アンドロイドは人間と互換性のある労働力と言える。 「俺は彼らが働く姿を見て、アンドロイドが人間に近い形状をしている理由が少し分かった気がします。人型のアンドロイドなら人間用に作られた場所や道具をそのまま使えるし、業務を行うにあたって人間と連携を取りやすい」  マグノリアはうつむいたまま一点を見つめて沈黙した。 「……で、お前が疑問に思った事というのは?」 「俺は……彼らに比べて機能的ではありません。機能性を犠牲にして得た感覚や感情は……何かの役に立つのでしょうか?」  感覚や感情には、アンドロイドが人間らしく振る舞う際にアンドロイドと人間のあいだにあるギャップを少なからず埋める効果がある。しかし人間らしく振る舞うことが何の役に立つかという疑問に、明確な答えはない。マグノリアは感情機能を搭載してから、答えのない疑問に執着するようになった。答えのない疑問は人間であれば誰しもが抱えているもので、死ぬまで尽きることがない。大抵の人間は常にその疑問を意識していると行き詰ってしまうことも分かっているので、時機を見て疑問から逃避する。  マグノリアはどうも逃避が苦手なようだ。アンドロイドはいくら考えを巡らせても一向に疲弊しないから、ひたすら疑いと行き詰りを繰り返している。 「お前は街でロボットとアンドロイドを見て、両者の違いをどう感じた?」  私はマグノリアの答えを待たずに質問を重ねる。 「ロボットよりもアンドロイドの方が、自然な存在だと思わないか?」 「……見た目に関して言えばそうですね、アンドロイドの方が自然だと思います。街は人間の為のコミュニティですから、その中で人間と形状がかけ離れているロボットを見かけると、やはり異質さを感じます」 「存在が自然であることに意味があると思わないか? 感情機能がないアンドロイドに関してはまだまだ不自然だが、感情のあるお前は現に周りから人間扱いされているんだろう?」 「似せることに意味がある……しかし、そうすると……」  マグノリアは再び一点を見つめて考え込む素振りをみせる。 「似せきれなかった部分が露わになった時の反動が大きいのではないでしょうか? 俺がいくら人間に似ていると言っても、人間との相違点をあげれば枚挙に遑がありません。俺は食事も排泄もしない。人工皮膚の内側には血液ではなく燃料が溜まっている。そして何より、俺自身、自分が人間ではないことを存知しています」  マグノリアの言うとおり、アンドロイドをいくら人間に近づけても、人間そのものに成代わることはできない。  そんなことは端から承知しているが、それでもロボットは出来得る限り人間を模倣すべきだという思想が、私の中にあった。私は何故マグノリアをロボットではなくアンドロイドとして製作したのだろうか。ロボットほど精緻で歪なモノはなかなか無い。私は、自らの意思を持って行動していると錯覚するほど精緻な機械が、歪な形のまま存在し続けることを許せなかったのかもしれない。人間の言葉を操り、人間のような行動をみせるロボットが、人間から程遠い姿で身近に在ることを許せなかったのだ。  私はマグノリアをどこまで人間に寄せれば気が済むのだろうか。内面を人間に寄せれば思い悩むことを覚え、自らの体の構造を気にするようになる。アンドロイドを人間に寄せれば寄せるほど、機能性が損なわれていく。 「困らせてしまって申し訳ありません、ドクター・エリス。俺は自分が余計なことを考えていると自覚しています。しかし、考えることを止めることはできないんです」 「他のことを考えてみたらどうだ。家事以外に何かやりたいことがあれば、要望を聞いてやるぞ」 「やりたいことですか……やりたいこと……やりたいこと……」  マグノリアには初期の段階である程度の知識をインプットしているし、街で人間の生活に触れて人間社会への理解も多少は深まったはずだ。 「ただ関心を持っている事柄でもいい。何か好きなものはないのか?」 「好きなものは……もう無いんです」  少し引っ掛かる言い方だった。  ……好きだという感情は、私が消してしまったのか。  マグノリアは記憶を操作されたことをどう思っているのだろうか。記憶を操作した後のマグノリアは、雨が降っても感情が変化することはなくなった。しかし記憶を操作されたという自覚は持っているので、雨は過去の自分を想起するトリガーになっているはずだ。それが原因で感情が過度に変化することはないにしても、軽く揺れ動く程度の変化も見せないのは少し気に掛かる。  横目でマグノリアの顔を見る。微笑を浮かべている。とても自然な微笑だ。しかし、この微笑はどこか……完成され過ぎているような気がする。マグノリアの記憶を操作して以来、この微笑を幾度となく見たような気がする。以前私が見た微笑と、今マグノリアが浮かべている微笑が、全く同じ微笑であるとは限らない。少し違っているのかもしれない。しかしこの微笑は、以前に幾度となく目にした微笑との違いを見分けることができないほど、酷似していた。アンドロイドは感情がなくとも、表情筋に相当するものを動かして様々な表情を作ることができる。しかしそれは飽くまでも形だけのもので、実際にその表情に見合うような感情を裏側に潜ませている訳ではない。  脳裏に、雨の中で高笑いするマグノリアの顔が浮かんだ。あれは酷く不気味で狂気的な表情ではあったが、今思えば、生気は失われていなかったように感じる。 「一つだけありました。確信を持って好きだと言えるものが一つだけありました」  私が沈黙している間、マグノリアは記憶の中から自分が好きなものを探っていたのだろうか。 「ドクター・エリスが好きです」 「はアッ!?」  声が裏返ってしまった。 「どうかしましたか?」 「いやなんでもない」  感情を搭載した直後のマグノリアは様々なものに興味を示していた。雨や花や窓枠や輪ゴム。だから私のことを好きだと言ったのもそういったものに興味を示す事と同義で、私が反射的に思い描いたような男女間の好意とは全くもって意味合いが違うはずだ。雨や花と同じように私のことを……しかしそれならば私の個人名を出さずに、人間が好きだと言うのではないか。 「表情がなんというか、苦しそうですね。大丈夫ですか?」 「ふぁッ……だ、大丈夫だよ田舎者」  腹に手をあてて深呼吸。  冷静に考えれば、マグノリアが私にどのような感情を抱いていても不思議はない。マグノリアがアンドロイドとして活動を開始してから今日に至るまで、その時間の大半を、私という人間と共に過ごしてきたのだ。マグノリアは一人で過ごした時間よりも、私と過ごした時間の方が長い。もしかするとマグノリアは、自分のことよりも、私のことの方をより多く理解しているかもしれない。  私はマグノリアに好意を向けられていることに驚いたのではない。それを包み隠さずストレートに伝えられたことに動揺したのだ。自分の感情をストレートに伝えることは決して不自然なことではない。マグノリアの言動は至って自然だ。私と今のマグノリアに違いがあるとすれば、それは単なる文化の違いでしかない。私は感情をストレートに伝えるような文化には慣れ親しんでいない、それだけのことなのだ。 「単刀直入に言おう。お前が抱えている悩みは、万人が抱える普遍的な悩みだ。人間は誰しもが自分の存在意義について悩んでいる。だからその悩みは最早個人的なものではなく、知的生命体を構成する要素の一つと言っても過言ではない」 「……つまり、悩みを持つことについて悩まなくてもいいということですか?」 「そういうことだ」 「ドクター・エリスはこの悩みをどう処理しているのですか?」 「忘れる。悩んでも詮無い悩み事は、自発的に忘れてしまう」 「記憶から消すということですか?」 「違う。意識の外へ追いやるということだ。記憶には残ったままだからそのうち思い出すこともあるが、その都度意識の外へ追いやってしまう」  実際はそうそう上手く追いやれるものではないのだが、悩みを忘れるという手段を知っているのといないのでは、気の持ちようが大きく変わってくるだろう。 「なるほど、余計な思案の対処法は分かりました。しかし、まだ分からないことがあります。悩み事が知的生命体を構成する要素の一つであるならば、ドクター・エリスが今言ったような対処法は、知的生命体による、知的生命体の為の知恵です。俺はそのような対処法に頼らなくとも、記憶や機能を操作して悩みの原因を消すことができる。埋めることが可能、かつ大した手間がかからない欠点をわざわざ放置するということは、その欠点に何らかの意味があるということです。俺の中に悩みが発生する意味を、教えてください」  私は胸の前で組んでいた腕を解く。手汗の染みついたシャツが肌にべたりと張りつくのを感じた。 「お前は生命体ではないし、今後生命体に変化することもない。お前はどこまでいっても機械だ。お前を人間だと思い込んでいる人々にお前の正体が露呈すれば、反動でより一層の異質感を与えるだろう。中にはお前を拒絶する人間も居るかもしれない。お前はストレスで自我を拒絶したくなるかもしれない。拒絶せずに済んだとしても、ストレスは確実に感じる、ストレスは精神を蝕む。余計な思案を生む感情や感覚は本当に不都合だらけの機能だ。感じることは熱くて寒くて痛くて苦しい。その雑多な苦しみを堪え忍んでいればいつか必ず良いことが起こる、などとは言わない。苦しみを吹き飛ばすような喜びなど、今後一生巡ってこないかもしれない。お前が感情機能や感覚機能に疑問を持つのは当然だ。私はお前にバグのようなものを搭載しておきながら、その機能の必要性をはっきりと伝えなかった。お前が疑問に感じるのは当然だ……。お前にそんなものを与えた理由はただ一つ……私がそれを、望んだからだ」 「ドクター・エリスは何故、それを望んだのですか? どこまでいっても人間には変化しないことが分かっていながら、何故それを?」  私は本当に自分勝手な人間だ。人間だから身勝手で当然、などという甘ったれた考えを持つぐらいに勝手極まる人間だ。過去の自分と現在の自分を轢き殺してやりたい。……殺す……殺す……轢き殺す……私は自分が轢き殺すことばかり考えて、轢き殺される役目は過去の自分に押しつけている。轢き殺す覚悟はあっても、轢き殺される覚悟の方は、いくら探しても私の中には見当たらない。私は自分自身を轢き殺したとしても、恐らくその場で車から降りたりせず、そのまま轢き逃げしてしまうだろう。こんな卑怯で矮小な人間は、人間からも動物からもアンドロイドからも嫌われて当然だし、私は自分が周囲から嫌われているという事実を少なからず受け入れていたのだが、そもそも自分が誰からも好かれていないと決めつけることからして卑怯で、矮小な人間は、自分が誰かに好かれていることを認めない限り、どこまでいっても矮小な人間のままなのだ。マグノリアは私のことを好きだと言った。言いはしたが、マグノリアが発する言葉には感情が絡んでいるのだから、それが混じり気なしの本心とは限らない。複雑化した想像力が思い違いを引き起こしているかもしれない。打算があるかもしれない。私のことなど本当は虫けらのように思っているかもしれない。私はマグノリアの好意を疑っている。疑えている。疑うことは自然だ。マグノリアに感情がなければ、私はマグノリアの言葉を疑わなかっただろう。私がマグノリアに求めていたものは、多分、そういうところにあるのだ。 「……私はお前に、人間に成り代わって欲しかった訳ではない。私が森や街や家で感じたことを、お前にも同じように感じて欲しかっただけだ」 「感じることを何かに利用する訳ではなく、感じること自体が目的、ということですか?」 「……そうだ。私が今感じていることを教えてやる。私は今、すごく不安だ、不安でハゲそうだ。そして、不安の中で……」  不安の中で何かを……。それに続く言葉が私の中にあったはずだが、不意に言葉を見失った。  口から声を発する代わりに、喉がゴクリと鳴った。言葉を飲み込む音。 「分かります。俺も、不安です」  そう言って口元をほころばせたマグノリアの顔に浮かんでいたのは、今までに一度も見たことがないような、ぎこちない微笑だった。 ■■■4■■■ 「その……素人童貞という言葉の意味は知っているな? 昨今ではその言葉の意味に倣うように、人間童貞という新語が定着しつつあってだな」 「つまりセクサロイドとの性交経験しかない者を指した言葉ですね?」 「理解が早いな。で、人間童貞という言葉を引き合いに出すならば、差し詰め私は……」 「完全処女ですね?」 「むっ……まぁ、その……」  自分が何を言っているのか分からなくなってきた。こんな辱めを被るなら、やはりマグノリアには他の役目を与えればよかった。セクサロイド以外にも何かあったはずだ。感情機能や感覚機能を活用する為の役目なら、セクサロイド以外にも何かあったはずだ。今からでも、マグノリアに与えたセクサロイドという役目を剥奪できないだろうか。アンドロイドの感情や感覚を活用するには、本当にセックスが最適なのかだろうか。 「完全処女という表現は不適切でしたか? すると……密閉処女……ハードヴァージン……いや、フルアーマー生娘……」  単にこいつが馬鹿なのか私が馬鹿にされているのかは分からないが、とにかく馬鹿げた話し合いであることは間違いない。  マグノリアにセックス以外の役目を与えるとすれば、どういったものが適切だろうか。感情機能の活用は日々の会話で事足りているから、問題は感覚機能の方だ。手っ取り早く感覚を伝えるには、スキンシップが一番だ。そもそも感情機能や皮膚感覚機能は、セクサロイドに搭載することを前提に開発された機能なのだから。  しかしスキンシップを図るなら、セックスまで飛躍せずとも他にいくらでも手段があったはずだ。単に手を握るとか……思い出した、手を握るという手段は、一度試して失敗に終わったんだった。マグノリアの感情は日に日に発達していて、既に一端の人間程度の感性を身につけているが、それでも私の繊細な感性に比べればまだまだ鈍感な部分があるようで、マグノリアは私に手を握られても特に何も感じていないようだった。手と手が触れ合うだけでそれはもうスキンシップには違いないのだが、私が思い描いているスキンシップは、感覚から感情に働きかける効果を含むものなのだ。だから手を触れるにしても、もう少し刺激的なシチュエーションを用意すれば、効果を期待できるかもしれない。  例えば、良く晴れた日にお弁当をこしらえて二人で森の泉まで散歩に出掛ける。泉の側でお弁当を食べながら、子供は何人欲しい?等という他愛無い会話で穏やかな時間を共有する。お弁当を食べ終えたら泉の中に足だけ浸けて二人でひとしきりパチャパチャとジャレ合った後、私は足が滑ったフリをして泉の中へ転倒しながらさり気なく下着を見せる。マグノリアが私を助け起こそうと手を伸ばす。私は頬を染めて片手で胸の辺りを隠し、怯えた子リスのような表情をちらつかせながらマグノリアの手をたどたどしく握る。  手を握るにあたってこれぐらいの演出を施さなくては、鈍感なマグノリアの感情には到底響かないのだ。こんなまどろっこしくて薄気味の悪いことを画策するぐらいなら、簡明直截なセックスの方が幾らかマシだ。  計画を一切立てずに二人で散歩に出掛け、成り行きに任せて手を握る、という方法もあるが、その場合は私の方から手を握るか、もしくは私の方から手を握ってくれと願い出なくてはならない。そのうえ、成り行きに任せて手を握ったところで、マグノリアがそれに対して何も感じなければ意味がないのだ。そうなったら握り損どころの話ではない。立ち処に私は"意味もなく手を握りたがる女"という認識を持たれてしまう。考えただけで髪の毛が抜け落ちそうだ。  いま目の前に居るマグノリアには、これから行うセックスの意味合いがしっかり伝わっているだろうか。もし伝わっていないとしたら、私は"意味もなくセックスをしたがる女"という認識を持たれているのではないか。しかもそんな女が追い撃ちをかけるように自らの処女性をカミングアウトしているのだから、傍から見た私はきっと尋常ではない。  感覚を伝えるにはスキンシップが一番だが、二番目以降の方法もあるにはある。例えば料理。料理には様々な調理法があって、それぞれの調理法に何らかの理屈がある。理にかなった調理法を用いれば、安全で栄養価が高くて美味しい料理を作ることができるが、そこに調理をする者の感覚や感性が加われば、料理の味は更に上昇する。いくら科学的に料理を解剖しようと、味から曖昧な部分を全て取り去ることはできない。料理の美味しさというものはそれを食べる者の味覚に依存しているから、作る側の味覚も同じように研ぎ澄まされていなければ、本当に美味しい料理は完成し得ないのだ。そうして感覚を駆使して作り上げた料理を介して、料理を作る者と食べる者のコミュニケーションが成立する。だから料理は、感覚機能の必要性を実感させるという目的に相応しい。相応しいのだが、生憎マグノリアには味覚がない。アンドロイドに味覚機能を実装したという話は聞いたことがない。現在のマグノリアに搭載している機能は全て既存の技術だから大した手間はかからなかったが、設備に欠けるこの場所で未見の機能をイチから作るとなると、私一人では思い通りの成果をあげる自信がない。味覚の場合はまず、味の成分を細かく数値化しなければならないし、口内の状態・食物の温度・食感等による味の変化も再現する必要がある。問題は山積みだ。手間暇かけてその山を崩すよりも、まずは今ある機能を用いて、感情や感覚の活用を試みたほうが建設的ではないか。  他の活用法を考え始めたところでなにやら馬鹿馬鹿しくなって、考えを中断した。結局のところ、私はなんだかんだと理由をつけて、セックスに至る動機を固めているだけなのかもしれない。  これは最近分かってきたことだが、私はこれでどうやら結構女々しいところがあるようだ。元より私は女なのだから女々しいという表現は当てはまらないかもしれないが、とにかく、私には男の女々しさに相当するような軟弱な精神が備わっているのだ。私はその精神に逆らっているから女々しいのであって、無理に逆らったりせずにこれを受け入れれば、女々しさはやがて女らしさに変容するのかもしれない。  横目でマグノリアの様子を窺う。何かを考えているような考えていないような、よく分からない表情を明後日の方向に向けている。  何故マグノリアはさっさとセックスを始めないんだ。こうしてベッドに隣り合わせで腰掛けたまま既に20分ほど経過しているではないか。今日はセックスを行うと予め伝えておいたのに、ペニスを挿入するどころか手すら握ってこないのは何故だ。もしかして、開始の合図を待っているのか。だとしたら、合図とはなんだ。セックスに開始の合図などあるのか。手をパンパン叩いて、いまから前戯をはじめま~す、とでも言えばいいのか。そんなことをしたら雰囲気がぶち壊しではないか。こういうことには雰囲気というか流れのようなものがあって、自然な流れの中でスムーズに始まるものではないのか。 「マ、マグノリア」 「なんですか」 「あの、その……そろそろ、始めても、いいんだぞ……」 「食事の用意をですか? エリスは近頃、食欲が旺盛ですね。食欲の秋ということでしょうか」  くそっ、冗談を言っているのか真面目に勘違いしているのかよく分からない。マグノリアは私に隠し事をするようになったし冗談を言うようにもなったが、常識が欠落している部分もあるから、私が冗談だと捉えていたマグノリアの言動が実は冗談ではなかったということが何度かあった。ふざけるならもっと分かりやすくふざけろ馬鹿野郎。 「そうじゃない。そうじゃなくて……」 「なんでしょうか?」 「セッ、セッ……ぐっ……」 「セグウェイ?」  すっとぼけやがって、殺すぞこの野郎。  この状況で私の方から恥ずかしげもなくセックスをオネダリしてしまっては、女々しさとか女らしさといったものからはかけ離れたところで私の精神が崩れてしまうような気がして、いくらまどろっこしかろうとも、口をつぐまざるを得ない。そもそも何の為にセックスをするかというと、私の為ではなくて、マグノリアの為でもなくて、多分、二人の関係性の為なのだ。関係性は結果から即座に作られるものではなく、過程の中で自然に作られるものだ。だからセックスの結果だけが重要という訳ではなくて、セックスの始まりも同じように重要で、ここで自然な流れを作っておかなければ、セックスの意義が失われてしまう。 「セグウェイがどうかしましたか、エリス」 「お前はこの状況で私がセグウェイという単語を持ち出すことに違和感を感じないのか」 「一般的に考えるとおかしいかもしれませんね。話に脈絡がないし、過去の記憶を掘り起こしてみても思い当たるふしがない。しかし、エリスは思いつきで変わったことをする人ですから。エリスの口から突然セグウェイという単語が出てきても、おかしくはありません」  変わったこととはなんだ。セックスのことか。セックスのことを言っているのか。 「常識人ぶるつもりはないが、私は私なりの考えがあってそういった言動に及んでいるんだ」 「そうですね、エリスは無意味なことを嫌いますからね」 「私の口からセグウェイという単語が飛び出た理由を説明してみろ」 「例えば俺が買い出しに行く際、セグウェイに乗っていけば、移動時間を短縮できます」 「移動時間を短縮することが目的なら、他の乗り物のほうが優れているんじゃないか。マウンテンバイクならもっと速いスピードで森の中を走れるし、燃料も要らない」  アンドロイドは肉体的に疲弊しないから、マグノリアが乗り物に乗ることを想定するなら、その乗り物が自動式であるか手動式であるかといった違いは考慮に値しない。 「では、何らかの比喩表現としてセグウェイを持ち出したとしたらどうでしょうか」 「何の比喩なんだ。セグウェイという単語だけでは、比喩もへったくれもないだろう」 「俺達はセグウェイの前に、処女の話をしていましたね。そのとき俺はエリスを完全処女だと形容しましたが、エリスは完全処女という表現がしっくりきていないようでした。だからエリスは、自分の処女性をセグウェイに例えて説明しようとしたんじゃないですか?」 「私の処女はセグウェイなのか。セグウェイ一台分なのか」 「価値をセグウェイに例えた訳ではなくて、あれです」 「どれだ馬鹿、この童貞野郎」  体温がぐんぐん上昇しているが、それは怒りによるものなのか、はたまた恥によるものなのか。 「エリスが言っていたのは、処女の中にも分類があるということですよね。セグウェイは車両です。人間を乗せたことが無い車両を処女とするなら、人間を乗せたことが有る車両は非処女です。そして車両の中にも分類がある。電車や自動車は速度が速いです。アンドロイドの脚による全速力よりも速い。だから電車や自動車には人間だけでなく、アンドロイドも乗り込む可能性があります。実際に乗ったかどうかということではなくて、乗り込む意味があるということです。それに比べてセグウェイは最大時速が20kmと遅めです。セグウェイは移動時間を大幅に短縮することよりも、移動にかかる労力の削減や、使いやすさを重視しているからです。時速20kmなら脚で走った方が速いし、いくらセグウェイが使いやすいといっても、歩行の方が小回りもきく。つまり、どれだけ歩いても疲弊しないアンドロイドがセグウェイに乗る意味は、無いんです。その考えでいくと、人間を乗せたことが無い電車や自動車があったとしても、アンドロイドを乗せている可能性は否定しきれない。しかし人間を乗せたことが無いセグウェイは、当然、アンドロイドを乗せたことも無いはずです。セグウェイを処女と称するなら、それは紛れもなく完全な処女です」  こじつけにも程がある。それに、私がセグウェイという言葉を発したことの理由を説明されてしまったら、セグウェイがセックスの聞き間違いだったという流れに持っていけないではないか。どうにかしてマグノリアの言う理由を否定しなくては。 「お前は先程、自分がセグウェイに乗って移動時間を短縮すると言ったじゃないか。アンドロイドがセグウェイに乗る意味がないなら、何故あんなことを言ったんだ」  私にアンドロイドを乗せる意味がないというなら、私は意味もなくマグノリアを乗せようとしているということになるではないか。マグノリアはそんな意味合いを持たせようと思ってこじつけた訳ではないのだろうけど。 「特殊な状況下であれば、アンドロイドがセグウェイに乗る意味も生まれます。俺はこの家の外では、自分が人間にみえるように振る舞っています。俺は激しい運動をしても汗をかかないし息が切れることもありませんから、できるだけ激しい動作は行わないようにしているんです。激しい動作というのは、例えば、走るといった行為です」  だから、マグノリアなら、セグウェイに乗る意味がある。 「……そうか」  マグノリアの説明はこじつけ以外のナニモノでもないし、そもそもセグウェイという言葉が単なる聞き間違いから生じたものであることは明白なのだが、折角こじつけたのだから、まあ、受け入れてやってもいいかもしれない。 「しかし、人里離れた森の中をセグウェイで移動している男は、果たして人間らしく見えるでしょうか?」 「……まあ、いいだろ。人里離れた森の中を男がただ歩いているだけでも怪しいんだから、それは場所柄の問題だ」 「そうですか。ところで、セックスはまだ始めないんですか? 先程エリスは、セックスと言いかけましたよね」  しっかり伝わっていたのか……今までのやり取りはなんだったんだ。 「は、始めてもいいが、その前に、それに相応しい雰囲気を作れ……」 「雰囲気……耳でも舐めればいいですか?」 「バカッ、そういうことを言うと逆効果だッ」 「具体的にどうすればいいんですか?」 「緊張をほぐすとか、そういうことだよ」 「エリスは緊張しているんですか?」 「ヴぁッ……す、する訳ないだろうが。ここは私の家で私の部屋なんだぞ。リラックスしまくりだよ……」 「舐める前に、話でもしましょうか」 「ピ、ピロートークか」 「ピロートークというものは後戯の一種ではないのですか」 「……広義には枕を共にしての会話という意味なのだから、事前にピロートークを済ませてしまってもいいじゃないか」 「そうですか。俺は枕を使ったことがないので、枕童貞ですね」 「枕営業みたいに言うな。というか、そうか、お前は眠らないんだったな」  マグノリアは感情を搭載した後も、以前と同じように私の睡眠時間に合わせて動作を停止しているようだ。まあ、眠ることも動作を停止することも、感覚的にはそう変わらないだろうが。 「ええ。……しかし、枕の機能性を体験することはできなくても、枕の心地良い感触を感じることはできます」  そう言って枕に手を伸ばすマグノリア。  枕の感触を楽しめるということはつまり、私のたまご肌の心地良さも感じ取ることができるのだな。いいぞ、それらしい雰囲気を演出できているぞ。 「想定していたより心地良い感触ではありませんね」  こいつはそういった演出を施すつもりがないようだ。  いや、ここで私がフォローすればいいのか。あら、私の肌はそんな想定なんて段違いに上回るわよ。とでも言えばいいのか。 「わた、わた、わ、たわしの肌は……」  自分の舌を燃やしてやりたい。 「エリスの肌の方が枕よりも心地良いですね」  二の腕を触られた。 「そ、そうか……というか勝手に触るな」 「すみません」  二の腕に置かれていた手がサッと引かれる。 「い、いや、別にいい」 「触ってもいいんですか?」 「や、やっぱりダメだ」 「どっちですか」 「……触ってもいいが、気安く触るな」 「気安く接した方が緊張は解れると思いますが」 「むっ……まあ、そうか……。い、いや、騙されないぞ。そんなことを言って、緊張をほぐすという名目で私の体を触りまくるつもりだろう」 「セックスとは、体を触りまくることではないのですか」 「触りまくるという表現がいやらしいんだ。そっと触れるとか、温め合うとか、そういう表現にしてくれ」 「触りまくると言い出したのはエリスですが」 「うるさいな。それ以上口応えしたら、お前の陰毛を燃やしてやるからな」 「熱いのでやめてください」 「黙れ、熱かろうと寒かろうと徹底的に燃やす。セックスの後で必ず燃やしてやる」 「セックスの最中は見逃してもらえるんですか」 「行為中にそんなところを燃やしたら、私にも熱が伝わるだろうが」 「エリスの陰毛に燃え移りますね」 「私の陰毛をまざまざと想像するな。いやらしい」 「すみません。無毛でしたか」 「無毛を想定する方がいやらしいわ」 「いやしかし、陰毛の在り方はそのどちらかに限られるんじゃないですか。陰毛に相当する部分が虚空という訳ではないでしょうし」 「私の股間は虚空だよ。残念だったな」 「すごいですね。もしよかったら見せてください」 「見たら目が潰れる。私の股間はそういう魔力を持っている」 「いわく付きの股間だったんですね。自分の股間を見ることができない生活は、さぞかし大変じゃないですか?」 「入浴中なんか常に目を瞑っているからな」 「それだと、しっかり汚れを落とせているか分かりませんね」 「誰が薄汚いヘドロ女だ」 「そこまでは言ってません。それに、エリスの股間がヘドロにまみれていても、俺は気になりません」 「う、嘘をつけ。お前だって汚いのは嫌だろう」 「本当です。エリスの股間は虚空ですからね。汚れていても気にならないというか、汚れているかどうかすら分からないと思います」 「うぐっ……」  最近、マグノリアの言動に振り回されることが増えている。振り回されているというのは私が一方的に思っていたことで、マグノリアには振り回しているつもりなど毛頭なかったのだろうが、どうも最近は意図的に手玉に取られているような気がする。よろしくない傾向だ。 「そんなことより、このあいだ調整したペニスの具合はどうなんだ。ちゃんと使い物になるんだろうな」 「試しに擦ってみましたが、ちゃんと射精できましたよ」 「量は? 量はどうなんだ? やたら出るとか勢いが強過ぎるとか、そういった不具合はないか?」 「どうでしょうか。射精に関する一般的なデータが不足しているので何とも言えません。今から射精してみましょうか」 「待て、そんなことを言って私に手淫させるつもりだろう。なんとまぁいやらしい。その手には乗らんぞ」 「自分で擦って射精するので大丈夫です」  そう言っておもむろに衣服を脱ぎ始めるマグノリア。 「待て待てっ、マスターベーションは止せっ」 「何故ですか」 「そんなことをしたら、私もお前に合わせてマスターベーションをする羽目になるだろうが」 「セックスにはそんな決まりがあるんですか」 「どうやらそうらしい。資料によると、性交渉中のマスターベーションは相互に行うのがスタンダードなようだ」 「スタンダードから外れても、別に構わないと思いますが」  何を言っているんだ、馬鹿か。初めてのセックスでスタンダードから外れてしまったら、恐いし恥ずかしいではないか。 「……お前はよくても私が嫌なんだ。私は性的倒錯者ではないのだぞ」 「そうですか。なら、やめましょう。ちなみに、試しに射精した際の精液量は、1.8ミリリットルでした」  具体的な数字を出されてもそれが適量なのかどうか私には判断がつかない。  2ミリリットルの注射器を思い浮かべる。さほど多量ではないように感じるが、どうだろうか。不安は拭いきれない。 「お前は1.8ミリリットルが適量だと思うか?」 「多過ぎず少な過ぎず、ちょうど手頃な量じゃないでしょうか。保証はしかねますが、恐らく大丈夫だと思いますよ」  こいつは感情が発達するにつれて融通がきくようになってきたが、それと同時に発言の内容が適当にもなっている。今の『恐らく大丈夫』という言も、失敗するかもしれないけどもし失敗しても痛手にはならないだろうから大丈夫、というニュアンスで言ったのだろう。こいつの尺度は割りと大雑把だから、繊細でたおやかな精神で生きている私がそれに合わせると、しばしば痛い目を見る。こんな童貞野郎の発言はとても信用できない。そして私は、処女である自分自身のことも信用していない。しかしまあ、こいつと私がそれぞれの感覚で大丈夫だと思っているのなら、多分、大丈夫なのだろう。 「射精量は興奮の度合いによって上下するようですね。興奮が最高潮に達していたら、1.8ミリリットルではすまないかもしれません」 「……こ、興奮するのか?」 「セックスで、ですか? すると思いますよ。発汗したり息が荒くなったりすることはありませんが、気分が高揚することで体温は上昇しますからね。現に今も、平時に比べて若干上昇しています」 「私の裸体を想像してしまって興奮を抑えきれないんだな。ドスケベ大明神め」 「裸体がどうのこうのというより、初めて行う行為への期待が大きいのかもしれません」 「……」  マグノリアもこれから行う行為の当事者だというのに、相変わらず表情は涼しげで、緊張の色は全く読み取れない。マグノリアは期待の先にある失望を恐れていないのかもしれない。私も子供の頃はそうだったような気がするが、よく思い出せない。何に期待していたのかということは思い出せるが、自分が期待感を抱いていた時の心境は、殆ど記憶に残っていない。 「おい、さっさと始めるぞ」 「なにをですか?」 「お前、分かってて言ってるだろ。……セックスだよ、セックス。私はセックスがしたくてしたくて堪らないんだ。私は処女のくせにペニスが大好きだからな。棒状のモノを食べる時は大抵ペニスのことを思い浮かべながら頬ばっているよ。ここまでくると、言葉の語尾にペニスを付けてもいいぐらいだな。そうペニス、そうするペニス」  私はこんな、言う方も聞く方も恥ずかしくなるようなクドイ冗談が大嫌いで、こんなことを言う人間の思考回路も理解できなかったのだが、最近になって少しだけ理解してしまったような気がする。冗談というものはある程度言い慣れてくると、新しい切り口のものを試してみたくなるのだ。言い慣れた冗談よりも突飛な冗談のほうが相手の反応が顕著に表れるから、冗談の飛ばし甲斐がある。甲斐はあるのだが、私がクドイ冗談を嫌っていることに変わりはない。 「どうした、面食らったような顔をして。早く始めるペニス」  私の冗談を聞いたマグノリアがここからどんな反応を示すのかと思ったら、狼狽えそうな様子をみせたのも束の間、またすぐにあの清涼感のある表情を取り戻して、「なるほど」の一言で済ませられてしまった。 「……も、もっとなんか反応しろっ、つっこめ馬鹿っ」 「つっこむというと、ペニスをですか?」 「うるさい黙れ」  私の反応を受けたマグノリアが、カラカラと笑った。  ひとしきり笑った後、「では、始めましょう」頬にマグノリアの手が触れる。 「ところで、エリスが処女だということは分かりましたが、自分が処女だと説明することに何の意味があるんですか。あの発言こそ脈絡もなく唐突でしたよ」 「だから、その……分かるだろ」 「分かりかねます」 「あーもうっ。……だから、優しくしてくれってことだよ……」 ■■■5■■■  私達は機械処女と人間童貞の喪失を皮切りに、セックスに明け暮れる日々を過ごした。マグノリアは私達の交わりを発情したライオンのようだと形容したが、発情したライオンは一日に数百回も交接するのだから、いくらなんでもライオンのような交尾という表現はオオゲサだ。マグノリアに与える"逃避"の手段として始めたセックスだったが、何時しかそれはマグノリアだけでなく、私にとっても逃避の手段となっていった。セックスで感覚を満たしている間はそこかしこにある雑多な疑問から解放され、生きることだけに集中できるような気がした。飽くまでもそういう気がしたというだけで、今ここに生きているという確かな実感を得られる訳ではないのだが、そういう曖昧なモノだからこそ、逃避の手段として機能しているのかもしれない。  私は夢の中から引き継いだ思案を中断して、ベッドから身を起こした。洗面所でうがいと洗顔を済ませ、コップに満たした水を乾いた喉に流し込む。マグノリアはまだ活動を開始していないようだ。なら、もう少しベッドの感触を味わっていてもよかったかもしれない。今更ベッドに戻るのは私の自制心が許さないので、このまま起きることにして、部屋をひとつずつ周ってカーテンを開いていく。カーテンを開ける時のシャーッという音は何か特別な感じがする。太陽の象徴のような音。そういったことを意識してカーテンを開けることも一種の逃避だろうか。一度開けたカーテンをシャッと閉めてもう一度シャーッと開ける。こういうことを延々と考えていてもあまり身にはならないと分かっているのだが、気がつくといつも同じ考えが脳髄に侵入している。一度、逃避がどうだ疑問がどうだということを、ベッドの中でポロリと漏らしてしまったことがある。その時にマグノリアが言った、逃避という概念はマスターキーのようなものだ、という言葉が、今も印象に残っている。  私が部屋に足を踏み入れたところで、その部屋の壁際で直立不動の姿勢をとっていたマグノリアがちょうど動作を開始した。 「おはようございます。今日は本当にお早いですね」 「ああ。夢を見たんだ。夢の内容はよく覚えていないが、とにかく夢がきっかけで目が覚めた」 「俺は夢を見ることがないのでそれは興味深いですね。今度、エリスが過去に見た夢の内容を教えてください」 「それは構わんが、内容なんて殆ど記憶に残っていないぞ」  私はオオゲサに音を立てて最後のカーテンを開けた。それから陽光を拝もうと窓に視線を向けかけたが、突然マグノリアの表情が固まったので、私は面食らってしまった。 「ど、どうかしたのか」  マグノリアは何も答えずに数秒ほど――であったように思うが私は呆然としていて時間の感覚がはっきりしなかった――表情を固まらせた後、「い、いえ、なんでも、ありません」ぼそりと言った。 「ん? そうか」  私は首を回して、横から浴びていた陽光を正面から受けた。そして、マグノリアを動揺させたモノの正体を突き止めてしまった。窓ガラスにくっきりと残った白い痕跡。私はそれを見てすぐに、ミミズクが残した痕跡であることを見抜いてしまった。この家で私と過ごしたあのミミズクの羽には粉が纏わりついていて、その粉を毎日のようにボロボロと家中に撒き散らしていた。だから私は、いま目の前にある窓ガラスにくっきりと残っている羽を広げた鳥のような跡が、粉によって形作られた痕跡であると分かってしまう。恐らく、夜のうちに森からやってきたミミズクが窓ガラスに衝突して、魚拓のような感じで窓ガラスに己のシルエットを残してしまったのだろう。一見してそれが鳥のシルエットだと分かってしまうぐらい鮮やかな跡だった。私はマグノリアの様子が気になって横を振り向いた。マグノリアは私と目を合わせようとしない。 「マグノリア。その……気にするな」  言ってから、自分の軽薄さに気づいた。気にするなと言われて気にしなくなる奴が居るだろうか。私が『気にするな』と言葉をかけたことで、マグノリアは余計に意識してしまったかもしれない。私がミミズクのことを特別に意識している、マグノリアはそういうふうに受け取ってしまったかもしれない。  窓に粉の跡をつけたミミズクは、私の知るあのミミズクではない。もしかしたらミミズクという種族ですらなくて、本当はフクロウが残した跡なのかもしれない。しかし、あのミミズクを連想させるには、それでも充分だった。 「……救い難いことをしました」  マグノリアは目を伏せたまま、ぽとりと呟いた。  あの一件以来、私はミミズクに関する話題を意図的に避けていたつもりはないが、積極的に話題にあげるつもりもなかった。マグノリアはどうだろうか。この動揺ぶりからすると、意図的に避けていたのかもしれない。だとしたら、マグノリアはミミズクを殺したことに罪悪感を感じているということだ。 「もういいんだ。私は気にしていない。それより、私が見た夢の話をしてやろう」 「すみません」 「私は夢の中で紫のクリームに」 「すみません……すみません、すみません、すみませんすみ『おい、落ち着け』せんすみませんすみませんすみません……」 「落ち着け馬鹿野郎、そんな真似はするな、私の目を見て私の話を聞くんだ」  マグノリアに近寄って肩を揺するが、いくら揺すっても謝罪の言葉は洪水のように流れてくる。私はマグノリアの頬を張った。頬に触れた手が汗でぬるりと滑って鈍い音を鳴らした。鈍い打撃音は謝罪の言葉と共に地面に落下するように消えた。束の間の膠着と静寂が訪れた後、マグノリアの顔に表情が戻った。マグノリアは取り乱したことへの謝罪をひとこと口にして、朝食の用意をする為にキッチンへ向かった。私は窓に写ったミミズクの痕跡を手早く拭き取った。朝食が出来上がる頃にはマグノリアはすっかり平静を取り戻していて、私達はいつものように大して面白くない冗談を飛ばし合った。窓の痕跡が原因で私達の関係がギクシャクするような気配は全くなくて、その日はいつもと同じように過ごしていつもと同じように暮れた。その次の日も、その来週も、何事もなかったかのように時が過ぎていった。  本当に何事もなかったのではないかと錯覚するぐらい変化のない日々が続いて、気がつけば外の森はすっかり冬模様だった。その日は季節に見合わない暑さで、日中に水分を摂りすぎた所為か夜中に尿意を覚えてふと目を覚ました。トイレへ向かう途中で、一室の電灯が点っていることに気づいた。マグノリアが消し忘れたのだろうか。今までこんなことは一度もなかったのに。ひょっとすると、森の動物が家の中に侵入して、何かの弾みで電灯が点いたのかもしれない。私は廊下に立ち止まって耳を澄ませるが、何も聞こえてこない。恐る恐る電灯の点いた部屋に近づいて、部屋の中を覗き込んだ。  部屋の隅で小刻みに動く物体があった、横になって壁の方を向いたマグノリアの後ろ姿だった。マグノリアは体を折り曲げてぶるぶると震えている。マグノリアはまだ私に気づいていないようだ。この時間は動作を停止しているはずのマグノリアが、何故床に転がって震えているのだろうか。いくら観察しても何をしているのか分からない。高熱に苦しんでいるようにも見えるが、アンドロイドは病気を患うことがない。だとしたら機械的な不具合だろうか。私はそれを見て心配するよりも先に薄気味悪さを感じてしまい、咄嗟に声を掛けることができなかった。この薄気味悪さはなんだ。私は部屋全体をじろりと眺めて、薄気味悪さの正体に気づいた。薄気味悪さを助長しているのは、カーテンレールから垂れ下がった一本の縄だった。縄は垂れ下がっている方の先端が輪っか状になっている。私はその縄を見てすぐに思い浮かんだものがあった。首を吊る為の縄だ。何故こんなものがここにあるのだろうか。  結局声をかけることができずに寝室へ戻った。それから朝まで一睡もできなかったが、眠れなかった原因は多分、尿意を我慢していたからだ。  翌朝、あの部屋に括りつけられていたはずの縄は綺麗さっぱり消えていた。マグノリアの様子もいつも通りだった。私はメンテナンスを口実にマグノリアの動作を停止させた。そしてメモリーを除く全ての箇所を入念にチェックしたが、不具合は一切検出されなかった。それから私は何度か夜中に起き出してマグノリアの様子を見に行ったが、あの夜に見た光景に出くわすことは二度となかったし、マグノリアは毎回決まって動作を停止していた。あれは夢だったのだろうか。そんなはずはないと思いつつも、時間が経つにつれて、自分があの夜にあの光景を目撃したという自信が薄れていった。マグノリアに直接訊けばはっきりすることなのだが、私はあの夜の出来事をどうしても口に出すことができなかった。それは私がミミズクのことを積極的に話題にあげたくないのと同じで、事態が切迫するまでは安易に触れたくなかったのだ。現在の私達は良好な関係を築いている。何も不満はない。だから私は、このままの状態を維持し続けることが最善であると考えた。  マグノリアを造ってからちょうど一年ほど経った頃、私は風邪をひいた。寝ているのもツラいほどの高熱で、火照った体をベッドの中で持て余していると、まるで自分自身が暖房になったかのような心地になってきた。私がそういう心地になったのは、マグノリアが暖房にあたるようにして私の傍らで待機し続けていることもいくらか関係しているのだと思う。 「何か食べられそうですか」 「水……」 「どうぞ」  上半身を少し浮かせて、差し出されたコップを受け取る。喉の痛みに耐えながら生温い水を飲み下す。口の端からこぼれた水が胸まで垂れて、爽快なんだか不快なんだかよく分からない微妙な感触をもたらした。 「他に何か欲しいものはありますか」 「要らん……寝る……」 「用があればいつでも呼んでください。そこに座ってますから」  眠ろうと思って目を瞑ったが頭痛がヒドくてどうにも寝つけない。こんな高熱に冒されたのは子供の時以来だ。体調管理には気を配っていたつもりだったが、私の気配りを余所に体調はあっという間に崩れた。片目を開ける。椅子に座っているマグノリアの姿が視界に入った。もしかすると私が高熱を出したのも、マグノリアの所為かもしれない。一人で生きていれば体調を崩しては一大事だと思って常に気を張っていられるが、看病してくれる者が側に居ると、無意識のうちに気が弛んで病魔の侵入を許してしまうものなのかもしれない。  考え事をしているとますます頭痛が激しくなる。しかし何も考えなければ楽になるかというとそうでもなくて、ベッドに横になったまま頭をカラッポにしていると、自分はこのまま死ぬのではないかという不甲斐無い不安が湧き起こってくる。風邪で死ぬなんて滅多にあることではないし、タダの風邪だと思っていたら実は病名を聞いただけで卒倒するような重い病だった、などということも滅多にあるものではない。しかし、可能性が全く無い訳ではない。私がこのまま死んだらどうなるだろうか。マグノリアは墓を用意するだろうか。用意するにしても墓石ではないだろう。誰がそこに眠っているのか分からないような手製の墓。雨が降ったら流れさてしまうような脆い墓。いや、それよりも、残されたマグノリアはどうなるのか。  三日ほど続いた熱がようやく引いた。この三日間、マグノリアは絶えず私の側に居た。今にして思えば、病気とはいえ四六時中ベッタリ付き添われるのはかなり鬱陶しいのだが、弱っていた時は追い払う元気もなかったのだから仕方がない。もしマグノリアが人間だったら今ごろ私から貰い受けた風邪を発症して、今度は私が看病をする羽目になっていただろう。ベッドから起き上がってキッチンへ行くと、マグノリアが食事の用意をしていた。流動食だった。私は流動食ではなくて普通の食事が食べたかったのだが、あれだけ看病して貰っておいて治るや否や早々にケチをつけるのも随分虫のいい話だなと思って、何も言わずに流動食を食べた。風邪はすっかり治ったが、寝込んでいた間に募った不安はそのまま心中に残った。今回の風邪は死に至るようなものではなかったが、私はいつか死ぬ。人間だから死ぬのは当然だ。ならば、死んだ後の処理を考えることも当然だ。私のような者がひとり死んだところで社会には何の影響も及ぼさないし、訃報を出すような間柄の人間も居ない。私の死によって発生するのはマグノリアに対する責任だけだが、この責任を如何にして果たすべきか。誰か他の人間にマグノリアを託すのが確実であるように思えるが、そうするとマグノリアは私の所有物ということになる。社会的には所有物かもしれないが、私はマグノリアを所有物として認識していない。では私にとってマグノリアはどういった存在なのか。友人、恋人、家族、細かい関係性はなんだっていいが、とにかく人間と同等の存在として認識している。しかしそれは私個人の認識でしかなくて、私の死を前提に考えるなら、やはりマグノリアは人間と同等の扱いを受けられないということになる。私とマグノリアの間にそういった心情を理解してくれる人間、もしくはコミュニティがあればよかったのだが、あいにく私は相談事を持ちかけられるような知人を一人も持っていない。  私が死ぬと同時にマグノリアの動作を停止するのはどうだろうか。道連れにするというのは少々傲慢なようだが、多難な行く末を当人に丸投げするのに比べたら、幾らかマシに思える。我が子を道連れに心中する親の気持ちというのはこんなものだろうか。親は自分の死が決定的になった時、子供のことを考える。親を失くした子供がどうやって生きていくかを考える。子供にその問いを投げかけても戸惑わせるだけだと分かっているから、無理心中という結論に達する。親は子供に生死の選択を迫ることは、無理心中を実行するよりも残酷だと考えている。果たすべき責任。責任の果たし方を知らない大人が増えている。マグノリアは私の死をどう捉えるだろうか。アンドロイドは生命体ではないから、死を体験することはできない。しかし、死を想像することはできるかもしれない。  洗い物を済ませたマグノリアが私のところへ来て、何か用はないかと尋ねた。 「今日は久々に日光浴でもするか」 「体調の方はもういいんですか? それに、体調が万全だったとしても、今は冬ですよ」 「厚着すれば大丈夫だ。寒いからといって家の中にこもりっぱなしでは、心身が腐ってしまう」  風邪がぶり返したらぶり返したで、またこいつに看病をさせればいい。  家のすぐ側で日光浴をしたのでは気分が乗らない、ということで木々の間をくぐり抜けながらずんずんと歩いてきたが、私はわざわざ家の遠くまで出向いたことを後悔する羽目になった。歩いているうちに気温がじわじわと上昇して、まるで南国のような暑さになったのだ。 「この暑さは私の体調不良からくる発熱によるものではないだろうな」 「ええ、明らかに気温の所為です」  着込んできた上着はとっくに脱いでいるが、それでも汗は流れ出る。脇に抱えている不快な肌触りのウールセーターを何度投げ捨てようと思ったか分からない。マグノリアは汗こそかかないものの、激しく照りつける陽射しを受け、暑さに喘いでいる。  ここまで蒸し暑くなるとは思わなかった。こんな暑苦しさを味わう羽目になると分かっていたら、遠出したりせずに家の周りをちょろちょろと歩くだけで済ませていたのに。 「歩き始めてから何分だ」 「約30分です」  歩き始めの頃は良かった。冬にしては心地良い気温で、これは最高の散歩日和だと思った。だから調子に乗って一直線にずんずんと30分も歩いてしまった。その結果がこのザマだ。ここから家に戻るには、また30分かけて同じ道のりを歩かなくてはならない。最初に甘い汁を吸わせて調子づかせたところで不意に苦味を与えて体力を奪い取るなど、まるで詐欺師の手口ではないか。私は季節というものを今後一切信用しないことに決めた。 「ところでエリス」 「なんだ」 「家に引き返さないのは何故ですか」 「癪に障るからだ」 「は?」 「冬に寒いという理由で引き返すだけでも癪なのに、冬に暑いという理由で引き返すなんて馬鹿馬鹿しくて耐えられない」 「しかしこのまま……」  マグノリアはそこまで言って口ごもった。 「このまま意地を張って歩き続けるほうがもっと馬鹿馬鹿しいと言いたいのかこの野郎」 「はぁ、いや……いえ、まぁ、そうですね。そろそろ帰りませんか?」 「その前に馬鹿馬鹿しい冗談を言ってみろ。そうしたら場が凍って涼しくなるかもしれない」  マグノリアはしばらく考え込んでいたが、やがて思いついたように顔を上げて、 「言い訳していいわけ?」と言った。  当然そんなもので暑さが紛れるはずもなく、私は性質の悪い冗談を要求した自分に腹が立って、両の拳を固く握り締めた。  頭が朦朧としてきた。いい加減家に戻ろうと踵を返しかけたところで、なにやら青い光が目に入った。緑々しい森の中で一際眩しい輝きを放つブルーライトの正体は、どうやら湖沼であるらしかった。私はブーツと靴下を同時に脱ぎ、裾を捲って湖沼に足を浸した。ひんやりとした水の心地良さが足から体内に浸透して体中を駆け抜けるような感じがした。 「自ら水に入るとは」 「もうそれはいい。それよりお前もこっちに来たらどうだ」 「いえ、大丈夫です」 「何故だ、遠慮するな」 「メッシーに食い殺されるので」  訳の分からないことを言って湖沼に入ろうとしないマグノリアの手を掴んで無理やり水の中へ引き込んだ。  快適な水温に足が慣れて気分もいくらか持ち直してきた頃、折角だから青姦をしようということになって、私はズボンを脱いだ状態で湖沼の中に立った。  全裸のマグノリアが体を密着させてくる。立ったまま上半身を擦り合わせているうちに、汗でぴったりと張り付いたシャツの下から乳首が突起してきた。湖沼の水に浸した指で乳首をソロソロと撫でられて私は緩やかなペースで吐息を漏らし始める。指の腹で執拗に乳首を触られ、こそばゆさが次第に甘い痺れへと変化してくる。 「はぁ、はぁ……はぁ、あぁ……あ、やん……」  シャツの中に片手を突っ込まれて胸を直に揉まれる。 「んん、んっ、んっ……んぅ……」  胸の感触を味わうようにじっくり揉まれながら、勃起した乳首を爪で弾かれる。 「やんっ! んうぅー……片方だけやられたら、変な感じがするから……」  マグノリアの肩に抱きついてそう言うと、すぐに姿勢を変えてもう片方の胸に吸いつかれた。シャツの上から舌を押しつけられて、湿った生地の隙間から舌先の熱が伝わった。水から涼しさを得て適温になっていた身体が再び火照るのを感じた。 「んっ、ん……んぅ……あ、あはぁ……はぁ、はぁ」  胸を攻められるのはあまり好きではない。吐息を堪えようと思っても、胸を舐められたり撫でられたりするとどうしても声が漏れてしまう。貧乳の方が感じやすいという話を聞いたことがあるが、私は生まれてこのかた胸が大々的に膨らんだ試しがないのだから比較のしようがない。 「っはぁ、あ……はぁっ、はぁっ、あぁぁ……」  私はこんなメス臭い声を出す自分が嫌いだ。けれどもマグノリアは私のこんなメス臭い部分が好きなようで、私が甘ったるい嬌声を出すと漏れなくペニスが反応する。軟らかなペニスが私のふとももに密着したままムクムクと膨らんだ。私は自分の胸が攻められている様子をあまり見たくなかったので、ふとももに擦りつけられる度に強度が増していくペニスを注視した。マグノリアが腰を上下するのに合わせてふとももを動かしてペニスの皮を剥いたり着せたりしてやっていると、マグノリアの口からも息が漏れ始めた。 「おちんちんがすっかり硬くなったな……そんなに気持ちいいのか」 「最高ですよ」 「お前は本当に脚が好きだな」 「エリスが胸の愛撫を好んでいるのと同じぐらいにね」 「馬鹿野郎、胸を愛撫されたって嬉しくもなんともないわ」 「すぐに乳首が立つし、胸を攻めていると、決まってしがみついてくるじゃないですか。気持ちいいからしがみついてくるんじゃないんですか」 「貧乳だから乳首の突起が目立っているだけだし、しがみつくのはこれ以上胸を攻められないように体を密着させて愛撫から逃れようとしているだけだ」 「エリスは言い訳が上手いですね」  マグノリアはそう言ってシャツの中に頭を入れた。へそに舌を這わされる。ねっとりとした舌が上半身に付着した汗を舐め取りながら昇ってくる。舌はやがて胸に到達し、乳房をじわじわとねぶられた後、乳首を強めに吸われる。 「んひゃんっ! こ、こら、そんなに吸いつくんじゃないっ」  シャツの中でいいように胸を吸われる。舌先で乳首を転がされて唇で乳房を擦られる。嫌だけど気持ちいいんでしょうと訊かれて私は思わず肯定しかけるが、すんでのところで口をつぐむ。 「ん、ん、んっ……んぅぅ……」  胸ばかり攻められるのが嫌なら控えますけども、と言ってマグノリアは乳首を甘噛みする。 「んっく、うぅ……だから嫌だって言ってんだろーが」  では胸への愛撫は控えましょうか、と言ってマグノリアは唇で乳首をしごく。 「か、勝手にしろボケ。お前が赤ん坊みたいにちゅーちゅー吸うのが好きだから許してやってんだからな。私は嫌だけどお前の為に許してやってんだからな。ありがたく吸えバカ、アホ」  ありがたいありがたいと言いながら胸を舐めまわされたので私は何やら腹が立ってシャツの上からマグノリアの頭を殴った。そうしたら頭がガクンと揺れて、唇で強かに乳首を弾かれる形になった。 「ふにゃんっ!」  すみませんと言いながらもまだ胸を攻めようとするマグノリアを無理やりシャツの外へ追いやって、 「そんなに吸うのが好きなら、私の口を吸わせてやる」上唇を咥えた。  ぴちゃ、ぴちゃ、と静かに音を立てながら互いの唇を挟み合う。唇を滑らせながら生暖かい息を吐き入れられる。少し息苦しくなって、キスをしながら喘ぐように息を吐いた。息を吐く時に僅かに漏れる声がすごくメス臭くて嫌だった。私は自分のメス臭さを紛らすように唇を動かして激しい水音を立てた。そのまま勢いで舌を差し込む。舌を何度か出し入れして口内を舐めて唾液を塗りたくってから、舌を絡めた。舌が触れるや否や野性的なキスが始まった。二人ともずっとこれを待っていたかのような激しさだった。ぬめった舌を求め合いながら腕を互いの身体に絡めて肉体を密着させる。これ以上くっつきようがないぐらい力強く抱き寄せられて、勃起したペニスが私のシャツを捲り上げた。ちょうどヘソの辺りにペニスが当たって、呼吸の度にペニスが擦れて腹に体温が伝わる。 「ちゅ、ちゅ、ちゅううぅぅぅ……ん、んん……もっとくっついて、いっぱいちゅーして……ちゅぱ、ちゅぱ、むちゅぅぅぅ、うはぁっ、はぁっ、はぁっ……あ……はぁ……ちゅう、ちゅう、ちゅう」  いやらしい水音と吐息が重なり合って頭の中に溶け込む。脳がふやけて色々なことが思考の外へ漏れ出す。キスの激しさがピークに達した時、両手で尻を鷲掴みにされた。乱暴な手つきで揉みくちゃにされる。尻肉に指が食い込んで下着が裂けそうだった。私は負けじと腕に力を込めてしがみついたが、どうやら負けん気が強過ぎたようで、バランスを崩してそのままマグノリアを押し倒してしまった。二人の身体が着水して飛沫が上がる。 「大丈夫か?」私の下敷きになったマグノリアに向かって言う。アンドロイドは人間よりも頑丈に出来ているが、それでもこんな浅瀬で強かに背中を打ちつければ、それなりの痛みが生じるはずだ。  マグノリアは口角を上げて「ご心配なく。水が冷たくて気持ちいいですね」水気を吸った前髪を払った。  水は確かに冷たくて気持ちが良かったが、私の身体はそれ以上の気持ち良さを欲していた。マグノリアの身体に覆いかぶさって再び口を吸う。キスに溺れているほうがもっと気持ちいい。短くて濃密なキス。顔を離すと、舌と舌の間に唾液の糸がひいた。 「……どうして欲しい?」 「このままの体勢で擦ってください」  上半身を少し浮かせて仰向けの状態になったマグノリアに跨り、ギンギンに勃起したペニスに股間をあてがった。腰をゆっくり前後に動かす。動かす度に膝が水面に触れてピチャピチャと音を立てる。 「それ、いやらしいですね」 「お前がやれと言ったんだろうが。いやらしいのはお前だ」 「パンツのことですよ」  飾り気のない白の下着は汗と水を吸って、ぴったりと身体に張り付いていた。濡れている所為で陰毛が透けている。この間剃らされたのでまだ大して目立たないが、申し訳程度に生えているのが逆に恥ずかしい。 「私のパンツはエロくない」 「エロいじゃないですか」 「エロくない」 「エロいからこんなに勃起して我慢汁がダラダラ流れてるんですよ」 「我慢汁を垂れ流しているおちんちんと密着してるからだろうが。こんなエロチンポが傍にあったら何でもエロく見える」 「強情ですね。キスしてる時は素直なのに」 「う、うるさいっ。そんなことを言うんだったらもう擦りつけてやらないぞ」 「ああ、ごめんなさい。エリスのいやらしいふとももとパンツを擦りつけて貰えなくなったら死んでしまいます」  下着とペニスが擦れる様子を凝視されている。動きがよく見えるように丁寧にスライドしてやった。擦り始める前から亀頭はカウパーに塗れていたが、濡れそぼった下着で竿を擦っているうちに、更にカウパーが溢れ出してきた。カウパーと水が混ざり合ってどんどん滑りがよくなる。 「先っぽを擦ってください」 「ん……分かった」  ふとももでマグノリアの身体を挟んで、腰を小刻みに動かす。下着のクロッチをカリ首に引っ掛けて刺激してやる。亀頭を下着に埋めたり出したりしていると、自分がペニスでマスターベーションをしているような気持ちになってきた。無意識のうちに、自分が気持ち良くなる部分にグチョグチョの亀頭を擦りつけていた。下着の中が熱くて気持ちがいい。 「おちんちん……気持ちいいか?」 「気持ちいいですよ」 「ほんとに気持ちいいのか……?」 「エリスのスケベな腰使いで気持ち良くならないはずがないでしょう」 「スケベで悪かったな……こんないやらしい身体に仕上げたのは誰だ」 「二人で仕上げたんですよ」  そう言ってふとももを優しく撫でられる。ふとももを触られていると股間がゾクゾクして快感が込み上げてくる。私は内ももにも刺激が欲しくなって、マグノリアの腰にふとももをスリスリと擦りつけた。 「今エリスは何をされているんですか。言ってください」 「い、言わなくても見れば分かるだろうが」 「言葉にしたほうがもっと気持ち良くなれますよ」 「ふとももを……いやらしい手つきで撫でられて、あひゃんっ! ……撫でられたり叩かれたりしている。ふとももを叩かれると、マ……マンコに振動が伝わって……」 「伝わってどうなるんですか?」  言葉の続きを催促するようにふとももを叩かれる。脚に付着した水滴が跳ねて腕や顔に飛び散り私は片目を瞑る。 「気持ち良くなる……」 「エリスはふとももを叩かれただけで感じてしまうんですか?」 「そ、そうだよ……悪いか」 「最高ですよ」  上半身を起こしたマグノリアに抱きつかれてそのまま身体を引き倒される。再び仰向けになったマグノリアに覆い被さる形になった。至近距離で目が合った次の瞬間、互いの唇を貪り合っていた。キスをしながら、今の状況を言葉にしろと促される。 「れろちゅーされて、ふともも触られへ、下からチンポをぐいぐい押しつけられへる。グチョグチョのチンポとパンチュがいっぱいこしゅれへ、きもち、きもちいい。舌をジュポジュポらしいれするような強引なチューれ、口の中もグチョグチョにされりゅ。ちゅ、ちゅぱ、ちゅうちゅうちゅう……んっ、んくっ……。ワレメに埋められはチンポれマンコの入り口こしゅられへ……んっ、ふぅ、ふぅ……こ、こりゃ、そんにゃ乱暴にこすゆな」  腰を掴まれて前後に激しく揺すられる。上に乗っている私が主導権を握っていたはずなのに、いつの間にか下にいるマグノリアにリードされている。なんとか自分のペースで腰を動かして状況を立て直そうと思ったが、下から突き上げられる快感に抗うことができなかった。結局マグノリアのペースで腰を動かされて、私の頭の中は薄桃色に滲んでいく。下着越しにもどかしい快感を絶え間なく与えられる。私は自分に快感を与えてくるモノの姿を意識してしまう。 「んっ、ちゅ、ちゅ、ちゅ……ちんぽ、ちんぽ……はぁ、はぁ、ちゅう、ちゅう、んっ、ふぅ、ちんぽ……」  ペニスのことをおちんちんやチンポといった下劣な言葉で表現する自分が嫌いだ。  これはマグノリアの希望を叶えているだけであって、本来の私はこんないやらしい言葉を進んで使うような淫乱ではない。 「ちんぽ……てぃんぽ……」  私は淫乱ではない。 「……てぃんぽ、気持ちいい……」  けれども快感には抗えない。 「ふぐっ、んむ、ん、ん……」  言葉を発する隙がなくなるぐらい激しく口を吸われる。大げさに音を立てて唇を貪られ、唾液を流し込まれる。飲み切れなかった分の唾液が口の端からこぼれる。亀頭の震えがクリトリスに伝わってくる。射精が近そうだ。頭の中に、硬いペニスからドロドロの精液が発射される光景が浮かぶ。自分の身体を使って射精されるのだと思うと、股間が熱くなって、更に快感が増す。白いザーメンを射精される光景が頭の中で何度も何度も繰り返される。早く私の身体で射精して欲しい。私の身体にチンポを擦りつけて射精して欲しい。そのことだけを考えて、抱きついたまま思いきり腰を振った。 「ちゅぷ、ちゅぷ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅうううううう……ん、んん、あふぅ、ん、んちゅ、ちゅぱ、んっ、んっ! んっ!」  股間にねっとりとした熱が発生した。一瞬、自分が漏らしてしまったのかと思ったが、そうではなかった。白くてドロドロの熱い精液を、密着した下着に滲み込ませるようにどぷどぷと射精されている。下着を穿いたままなので変な感じがする。でもそれが凄く気持ち良かった。射精が終わるまで抱きついたまま口を吸い続けた。最後に舌を絡ませて短く息を吐いた後、ゆっくり顔を離した。 「はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁぁ……」  呼吸が落ち着いてきたところで下着に手を伸ばす。外側も内側も熱い液体に塗れていた。  私はマグノリアの上から転がるように離れて湖沼の水に身体を浸す。いくら水を掛けても身体の火照りは一向に治まらない。精液を洗い流そうと水の中で下着を摘まんでジャブジャブやっていたら、それだけで軽くイッてしまった。私は淫乱かもしれない。  不意に、胸に何かが被さった。続いて首筋にねっとりとした感触。背後から胸を揉まれながら首筋を舐められている。 「こら……射精したばかりだろ」  私は逆手でマグノリアのペニスを掴み、自分のふとももに押しつけてゆっくり擦ってやった。擦り上げる度にペニスの先端から少量の精液とカウパーが流れ出てくる。日光を遮っていた雲が通り過ぎて、亀頭の先から垂れた筋がきらきらと閃いた。  湖沼から出て、木の前に立たされる。私は目の前の反り返った木を見て、ペニスみたいだな、と思った。手触りはこんなにザラザラしていて、ペニスからはかけ離れた性質のはずなのに、私は最初に抱いた印象を拭うことができなかった。 「……このまま後ろを向いていればいいのか?」 「はい。そのまま……」  ふとももの間に生温かいペニスを挿し込まれる。後ろから挿し込まれているので目視はできないが、こんなに粘り気があって温かくて太いものはペニスしか思い当たらない。ふとももの間をペニスが出たり入ったりしながら徐々に昇ってくる。内ももにカウパーを塗りたくられて、私の腰はぶるぶると震えだす。震えを抑え込むように腰に手を添えられる。尻、ふとももの付け根、脚、その辺りの肌を手の平全体でたっぷりと味わうように、いやらしい手つきで撫でまわされる。私の性感帯がふとももだと発覚してから、マグノリアは執拗にふとももを責めてくるようになった。その所為で日に日に感じやすくなっているような気がする。ふとももの間を昇ってきたペニスが下着にぴったりと密着した。脚に力を込めてペニスを圧迫してやった。  背後から犬のような荒い息遣いが聞こえてくる。相手の姿が見えない体位には少し恐怖感が混じる。犯されているような感覚。後ろに居るはずのマグノリアが他の人間にすり替わっていたら、私はそのことに気づけるだろうか。ついこの間まで処女だった私は、マグノリアの他にペニスを知らない。私は生身のペニスを知らない。ペニスの違いが分からない。他のペニスで快感を得ている自分の姿を想像して、無性に悲しくなった。 「マグノリア、そこに、居るのか?」 「居るに、決まって、るじゃ、ないですか」言いながらペニスを出し入れされる。 「おちんちんも、そこに、あるのか?」 「あります、よ」 「チンポも?」 「おちんちんも、チンポも、ペニスも、全部ここに、ありますよ」言いながら胸をギュムギュムと揉まれる。 「……パンツの中に、いれても、いいぞ」  言うや否や、ペニスが滑り込んでくる。私はペニスの感触を生で感じて、息が詰まりそうになる。生身ではないが、生の感触だ。性器と性器が擦れ合って下着の中に熱気がこもる。  私達の性行為は素股の比率が高い。だから素股による私の感じやすい部分もしっかり把握されている。ひだの部分を執拗に擦られて声を抑えられなくなる。 「ん、ん、ん、んっ! あ、あ、あぅん、あんっ」 「気持ち、いい、です、か?」 「気持ち、いい、よっ……あっ、やぁん……」  下着の中で固定されたペニスが私の性器としっかり密着していることに加えて、同時にふとももを擦られているので、快感の度合いが格段に上がる。これだけでも絶頂しそうなのに、マグノリアは片手を私のふとももの間に挟み、更に内ももに刺激を重ねてくる。 「こらぁっ……そんなにふとももばっかり弄っちゃ、ダメだろっ……」 「なにがダメなんですか?」 「なにがって……」 「素股でイクのが恥ずかしいんですか?」  そう言ってもう片方の手で胸を揉みしだき、指で乳首を転がしてくる。 「我慢しなくていいんですよ。エリスが素股でイクところを見せてください」 「ううぅぅ……バカッ、アホッ……あっ、あっ、やぁっ……」  我を忘れるほど快感が高まればこんな言葉責めに恥じらいを感じることもないのだが、マグノリアがこういった言葉を投げかける際は、決まって腰や手の動きを緩めてくるので、脳に恥じらいを感じる余裕が出来てしまう。  股間にペニスを挟みながら、その少し下に挟んだ手で内ももを触られるのが気持ち良すぎて、私は自分からマグノリアの手にふとももを擦りつけてしまう。 「うぅ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、気持ちいい……気持ちいいよぉ……」 「パンツの中に出してもいいですか」 「ダメだ……パンツの中じゃなくて、私の中に出さないとダメだ」  素股は最高に気持ちいいが、私は肉体的な快感を得ることよりも、私の中に開いた穴をペニスで埋めて欲しいと思った。ペニスで膣を掻き回して欲しい。子宮に精液を流し込んで欲しい。 「マグノリアのおちんぽが欲しい……」  次の瞬間、私の希望通りにペニスで穴を埋められた。私は一瞬呼吸が止まり、頭が真っ白になって、気がつくと小便を漏らしていた。挿入されただけで恥ずかしげもなくジョボジョボと小便を漏らしていた。全ての小便が出終わるまで、ペニスは私の中に挿さったままだった。 「はぁ、はぁ、はぁ……ん、いいぞ……動いていいぞ……」  奥まで突き刺さったペニスが入り口付近までぬぷりと抜かれ、 「あんっ!」  一気に奥まで挿し込まれる。 「あっ、あんっ、あんっ、あんっ、あんっ」  マグノリアはもう何も言わなかった。私も言葉は発さずに、メスの鳴き声を挙げて快感を貪った。  私の肩にマグノリアの顎が触れる。私はそれに応えて首を回し、夢中で舌を絡めた。後ろから両腕を回されて力強く抱き締められる。 「しゅきって言って……」  キスをしながら言葉を求める。私は求めた通りの言葉をもらって多幸感に満たされる。抱き締められながら何度も言葉をもらう。私は同じ言葉を返す。 「しゅき、しゅき、ん、ちゅ、ちゅ、ちゅっ……んっ、んっ、んっ、んっ、しゅきぃ……」  気持ちいい。ふとももを触られるより、小便を漏らすより、言葉をもらうことが一番気持ちいい。こんな気持ちいい言葉を言ってくれる人間は誰もいなかった。言わせてくれる人間は誰もいなかった。だから私は私の全てを込めて言う。 「好き……大好き」  言葉を吐き出した直後にキスをして、そのまま中に射精される。精液を注ぎ込まれる感覚に浸りながら、私は意識を失った。 ■■■6■■■  目を覚ましてすぐに、水が欲しいと思った。  私は汗だくでベッドに横たわっていた。辺りはすっかり暗闇に包まれていて、カーテンの向こうから月明かりが漏れている。頭にズキリと短い痛みが走り、私は瞼を閉じた。  瞼を開くと、部屋の電灯が点っていた。マグノリアが部屋に入ってくる。マグノリアに向かって訊ねる。私はどうなったんだ、気を失ったのか、私達は湖沼に居たんじゃないのか、お前が家まで運んでくれたのか? そうですよ、マグノリアはそう言って私の顔に付着した汗を拭ってくれた。それから二言三言ことばを交わして、どうやら大丈夫らしいということが分かったので、私は再び眠りについた。まだ少し頭が痛かったのだ。  あの湖沼での出来事は夢だったのかもしれない、私はシャワーを浴びながらそんな疑問を抱いた。  昨日の気温は異常だった。セックスの最中に気を失ったことも異常だ。あんなことは今まで一度もなかった。病み上がりなのと急激な温度変化が重なって身体に負担がかかったのだろうとマグノリアは言っていたが、それがどうにも歯切れの悪い言い方だった。私達はすっかり気が置けない間柄になったと思っていたが、時折マグノリアの言動に距離を感じることがある。何かを隠しているような、諦め切っているような、隔たりのある反応。それは私達の仲が親密になるにつれて、より際立っているような気がする。マグノリアが私に反発したことは一度もない。私の言動を否定することはあるが、強い否定ではない。今のマグノリアには反発や主張がないのだ。感情機能を搭載した直後はもう少し主張めいたことを口にしていたように思う。私のことをはっきり好きだと言ったり、自分の記憶を操作して雨に対する感情を平坦にしてくれと頼んできたり、そういったことを遠慮せずに口に出していた。今でも冗談のような軽い言葉は遠慮なくぶつけてくるが、深刻なことはあまり話さなくなった。それはつまり、感情が成熟したということだろうか。今のマグノリアになら、私が心の奥底で思っていることをぶつけられるかもしれない。  シャワーを止めて扉を開ける。バスタオルを用意し忘れていたことに気づいてマグノリアを呼びつける。 「どうぞ」 「うむ」  バスタオルを受け取る。 「マグノリア、昨日のことだが……気を失った私を、お前が家まで運んで……くれたのか?」 「ええ、そうですよ。それがどうかしましたか?」 「いや、まだ礼を言ってなかったと思ってな。大変だったろう」 「大丈夫ですよ。エリスはいつも礼なんて言わないじゃないですか」 「……そうだな」  身体を拭き終えてバスタオルを置こうとしたらマグノリアの手が伸びてきてバスタオルを掴んだ。その際、私の胸にマグノリアの手が微かに触れた。お前は大きい胸と小さい胸、どちらが好みなんだ、マグノリアにそう尋ねると、小さい方が好みだという答えが返ってきた。もっと他に言いたいことがあったはずなのに、どうにも考えがまとまらない。  言いたいことを求めて頭の中の記憶を探っていると、次第に気分が沈んできた。私の頭の中には私を不安にさせる要素が散らばっている。私は安心感を求めてセックスに逃げ込んだ。  セックスを終えた私はいつものようにマグノリアの動作を停止させる。マグノリアの腹部を開いてダストケースを取り出す。ダストケースの中には私の唾液が詰まっている。今日はクンニをしていないので唾液だけだ。ダストケースを洗浄して、換えのケースをマグノリアの中に収める。ガコンという音がしてマグノリアの腹部は元通りになる。不自然な部分がないかマグノリアの身体を一通りチェックして、動作を再開させる。セックスの後に毎回行うこの作業は、決まって私を現実に引き戻す。 「何か食べますか? すぐに用意しますよ」  マグノリアは何事もなかったかのように喋り出す。 「今日はいい。このままベッドで眠ろう」 「分かりました。では……」  ベッドから降りようとするマグノリアの腕を掴んで、ベッドの上に引き戻した。 「今日はお前もここで眠れ」 「俺は睡眠を取れないんですよ。分かっているでしょう」 「じゃあベッドの中でずっと起きてろ。私も朝まで眠らない」 「どうしたんですか? 様子がおかしいですよ」 「私は元々おかしいんだ。分かっているだろう」 「……分かりました。ここで横になって起きてます」  私はマグノリアに背を向けて横たわった。  瞼を閉じる。頭の中に浮かんできた色の無い記憶が複雑に交差して軌道を描いている。記憶にぼんやりと色が染み始める。形もはっきりしてくる。ミミズクの記憶。マグノリアはミミズクの一件を気にしている。あれは私が引き起こした事故だ、マグノリアが感じている罪悪感を取り除いてやりたい。ミミズクの死は私の責任だということを説明すれば分かってくれるだろうか。理解はしてもらえるかもしれない。しかし、直接手を下したのはマグノリアだ。その事実を消すことはできない。私に全ての責任があるとしたら、マグノリアはただそれに巻き込まれたということになる。私が自分を責めれば責めるほど、マグノリアはやるせない思いをするのではないか。私はどういった言葉をかければいいのだろうか。適切な言葉が思い浮かばない。今の私の立場からでは、どんな言葉も届かないような気がする。マグノリアは取り返しのつかないことをしたと思い、悔やんでいる。ならば、私も同じように取り返しのつかないことをすればいいのではないか。対等な立場になれば罪悪感を取り除けるかもしれない。けれども、失敗した時のことを考えると足が竦む。  思考を中断して別の記憶を掘り出す。  私達の生活はセックスが中心になった。マグノリアはセックスに必要な機能を全て備えている。セックスをしている間は、マグノリアは人間と同等の存在になる。セックスがあればマグノリアは人間で居られる。しかし、私達にとってのセックスは逃避だ。いつかは現実に戻らなければならない。マグノリアはセックスに依存し、私に依存している。今の状態ではセクサロイドとして生きていくことはできても、アンドロイドとして自立した生活を送ることはできない。マグノリアはそういった生活を望んでいるだろうか。望んでいるとは限らない。人間の所有物でありたいと考えているかもしれない。実際にアンドロイドとして自立して生きるかどうかは、マグノリア自身の判断に任せればいい。私はその選択が可能な環境を作ってやりたい。最近、マグノリアの考えを読めなくなることが多々ある。感情がなかった頃のマグノリアも何を考えているのかよく分からなかったが、それとこれとは意味合いが違う。私はマグノリアとセックスで快感を共有して、分かり合った気になっていただけなのかもしれない。  背中越しにマグノリアの気配を感じる。私が存在感を感じられるように敢えて気配を残してくれている、私はそう思い込むことにした。マグノリアは心の底から私のことを想っている、そう思い込むことにした。すると、途端に尿意を催した。尿意は私に焦燥感をもたらした。こういったことは自分一人で思案するよりも、マグノリアと話し合ったほうがいいのかもしれない。ミミズクのこと、感情機能を搭載したこと、マグノリアの所有者として届出を出さないこと、こういったことを腹を割って話し合うべきなのかもしれない。  けれども、私は深刻な話を口に出すのが怖い。  マグノリアは私のペットではない、だから深刻な悩みを持っている。  マグノリアは私の子供ではない、だから自分の悩みに自分で答えを出すことができる。  そんなことは分かりきっている。分かりきっているはずなのに、私はマグノリアの自主性を信じきることができない。私は、私は自分のことが分からない。  腰回りに刃物で撫でられるような冷たさを感じた。下半身が濡れている。私は寝小便を漏らしていた。  身体は冷えきっていて濡れたシーツの感触が気持ち悪かったが、不思議と頭の中は澄み渡っていた。寝小便を漏らしたのは子供の時以来だった。窓からの月明かりが部屋の中をぼんやり照らしている。  マグノリアは濡れていないだろうか。上半身を起こして後ろを振り返ったがベッドの上には誰も居ない。目をこらしてベッドの先を見ると何か黒いものがあった。黒い物体はぶるぶる震えている。次第に目が暗闇に慣れてきて、黒い物体の正体がマグノリアだと分かった。マグノリアは背を向けて床に転がっている。マグノリア、私が声を掛けるとマグノリアの身体がビクンと跳ね、震えが止まった。ゼンマイを巻いた玩具のような動作で振り向いたマグノリア。私はその顔を見て、体内に残った小便が漏れ出るのを感じた。マグノリアの顔、その顔の右半分には表情が全く無いが、左半分には薄ら笑いが浮かんでいる。まるで顔の半分に別人の皮膚を縫合したかのようだった。マグノリアは甲高い笑い声をあげ始めた。顔の半分で痙攣するようにケタケタと笑っているが、もう半分は壊死したかのように静かだった。マグノリア、一体どうしたんだマグノリア、私の呼びかけを無視したまま甲高い笑い声が金属音に変わる。マグノリアは声のボリュームを上げ続けながらのっそりと立ち上がり、スローモーション映像のようにじわじわと歩き始めた。私はマグノリアの名前を呼び続ける。マグノリアは一直線に歩み寄ってくるが返答は一切得られない。歩き方が異様だった。上半身は微動だにせず、脚だけが蟲のようにモゾモゾ動いている。  月明かりでマグノリアの顔が鮮明に浮かび上がった。目が合う。排水溝の奥を覗き込んでいるような気分になる。お前の瞳はそんな瞳じゃない、排水溝の奥にこびりついたねっとりとした汚れのような瞳じゃない、もとの蒼い瞳に戻ってくれ、私の言葉に応えてくれ、何か言ってくれ、私とコミュニケーションをとってくれ。  笑い声が室内に充満した。顔の表面が熱い、身体の芯は冷えているのに手足と顔だけが熱を帯びている。マグノリアはベッドのすぐ側まで来ている。  マグノリアの脚がベッドにぶつかる。笑い声が止んだ。マグノリアはいったん閉じた口を再び開き始める。喉の奥から呻き声のような音が鳴っている。マグノリアは何か言おうとしている。何を言おうとしているのかは分からないが何かを言おうとしていることは分かる。アンドロイドが口を開く時は声を発しようとしている時だけだ。何かを言われる、何か深刻なことを言われる、他人に何かを言われるのが怖い、深刻な言葉をぶつけられるのは嫌だ、嘘か本当か分からない言葉で慰められるのはもっと嫌だ。  私は掛け布団を引っ掴んで放り投げた。掛け布団はマグノリアに被さり声が止んだ。ベッドから飛び降りて部屋を出る。両手で耳を塞いで廊下を走る。思い通りに足を動かすことができない。走って転んで顎をしたたかに打ちつけた。顎だけでなく首にも激痛が走った。首の筋が痛くてしばらく動くことができなかった。こんなに痛い状態が続くぐらいなら、いっそ折れればよかったのに。回らない首でしばらく走ってきた廊下の先を見続けていたが、マグノリアは部屋から出てこなかった。やがて痛みが和らぎ、私は下半身に身につけている濡れた衣服を脱ぎ捨てる。鼻を刺激したアンモニア臭はそのまま私の身体に纏わりついた。  私は後ろを振り返らずにひたすら走ってメンテナンスルームの扉を開ける。そこから電波を飛ばしてマグノリアの動作を停止した。停止ボタンを人差指と中指で何度も何度も押した。最後に思いきり勢いをつけてボタンを押し込んだ。乾いた音が部屋中に響く。急激に身体の力が抜けて、立っているのもだるくなった。 「はぁっ……」  壁を背にしてへたり込む。尻に床の冷たさを感じて身体が強張る。脚の震えが止まらない。  何をやっているんだ私は、マグノリアが何か言いたいことを抱えているなら聞けばいいじゃないか、マグノリアの口から直接聞けばいいじゃないか。そうすれば楽になれるかもしれない。けれども――。"けれども"という言葉で何度頭の中の考えを覆したか分からない。頭の中から恐怖心を取り除いてしまいたい。  私はいつの間にか下着の中に手を突っ込んでいた。中指の腹にクリトリスが触れている。 「んっ……ん、んぅ……んっ……」  恐怖心を失くすには何かに逃げるしかない。脚の震えはまだ収まらない。片手をふとももの間に挟んで瞼を閉じ、顔を上げてもう片方の手でクリトリスを弄くりまわす。快感は正直だ、私は他人だけでなく自分自身のことも信用できない、しかし快感だけは嘘をつかない。快感の正直さは本物だ。  マグノリアは嘘をつくことを覚えた。マグノリアは人間社会に出たら一人で生きていくことができないから本音を曲げてでも私に同調する。関係が壊れることを恐れて嘘をつかれるのが怖い。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」  指に愛液を絡めてクリトリスを小刻みに擦る。 「んっふぅ……んっ、んっ、んっ、んっ、んぁん……」  汗ばんだふとももを撫で回してしているうちに、この隠れ家に住み始める前に見たニュースの内容を思い出した。夫が妻をめった刺しにして殺したニュース。その夫婦は二人とも老年で子供は居らず、蓄えがなく生活は困窮していた。夫婦間の愛情は冷めきっていたが、別れてそれぞれが新しい生活を始められるだけの余裕がなかった。互いに感情を誤魔化して夫婦生活を続けていたが、終いには耐えきれなくなって殺害に及んだ。最初に包丁を持ち出したのは妻のほうだった。夫がそれを奪って妻の身体に刺した。一撃で即死しなかったので夫は繰り返し包丁を突き立てた。中途半端な状態で生かすのが可哀相だった、生き残った夫はそう語っていた。そのとき夫は自分の中に妻への愛情が残っていることに気づいたのだそうだ。  クリトリスを摘まみ、脚を揃えてつま先をピンと立てる。快感が足りない。指で愛液を掻き出してクリトリスに塗りたくる。 「んあぁ……クリ……あふぅっ……あふん……ん、んっ……気持ちぃ……」  頭がクラクラする。すくい損ねた愛液がふとももを伝う。愛液は汗や尿と混ざって更にぬるぬるした感触になった。手の平に付着した液体を舌先で舐めながらクリトリスを虐める。何度も手の平の液体を舐めていると、次第に汗臭さと尿臭さとメス臭さを嗅ぎ分けられるようになってくる。けれどもそれらの匂いをいくら嗅ぎ分けたところで、結局どれも私の身体から発した匂いに違いはない。私はマグノリアの身体からマグノリアの匂いを感じたことがない。いくら身体を重ねても匂ってくるのは自分の匂いだけだった。私にとっては今嗅いでいる匂いがセックスの匂いなのだと考えると、無性に腹が立った。  膣に中指を挿れてザラザラした部分を軽く押す。中指に力を込めたり弱めたりしながら、親指でクリトリスを撫でる。 「はぁっはぁっ、あ、あう……はうぅぅぅっ……」  鋭い快感が体内を突き抜けて息がつまりそうになる。膣内の気持ちいい部分に圧力を加えながら内ももを擦り合わせる。  快感が高まると唾液が次から次に分泌されて止まらなくなる。この唾液を舐め取って欲しい。口をちゅーちゅー吸って欲しい。唇を尖らせてキスをイメージする。キスをしながらイクのが癖になっている。ふとももの間に挟んでいた手を口元にもってきて指と指の間に舌を挿し込む。ぬるぬるした指を舌の上に乗せ、ぴちゃぴちゃと淫らな音を立て、ディープキスのように舐める。分泌された唾液を飲み込まずに垂れるがままにしていたら、ヘソに落ちた唾液がクリトリスを伝って膣に到達した。体液でぐちょぐちょになった膣穴に指を突っ込んで激しく出し入れした。 「あうっ……あぅんっ……んっ、んっふぁ、あっ、あっ、あぁっ、あ、あくううぅぅっ……くぅんっ……」  膣から指を引き抜くと同時に体液の粒が飛散してキラキラと煌いた。私はオーガズムを迎えながら全てを忘れようとした。嫌なことを全て忘れようとした。腰を突き出してヒクヒクと揺り動かし、オーガズムを迎え入れる。瞬間的に頭の中に快感の波が流れ込んで嫌なことを全てさらっていったような気がした。 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……はあぁぁ……」  そんな気がしただけだった。快感はまだ後を引いているがあとは徐々に落ち着いていくだけだ。快感と反比例するように嫌なことは次から次に湧いてきて私の意識を侵食してしまう。このまま冷たい床に座り続けていたら、意識だけでなく、意思まで喰らい尽くされそうだった。  地下のメンテナンスルームから出て地上に戻ってきたところで廊下の窓に付着している水滴が目に入った。地面が濡れている。雨が降ったようだ。眠っている間に降ったのかクリトリスを弄っている最中に降ったのかは分からないが、とにかく今は温かいシャワーを浴びたかった。シャワーを求めて無心で廊下を歩いていると、寝室から突き出たマグノリアの半身に出くわした。先程のマスターベーションで体中から体液を散々放出したからもう何も出ないだろうと思ったが、意に反して冷や汗が噴出してきた。半身だけ見えているマグノリアは動作を停止しているので微動だにしないが確かにそこに居る。寝室から突き出ているのは主に手足で、ここからでは表情までは窺えない。マグノリアはどんな表情で停止しているのだろうか。少し気になるが今は見たくない。とにかく先にシャワーを浴びたい。寝室は廊下の左手にあるので、私は廊下の右側に寄って目を瞑ったまま寝室を通り過ぎようとした。廊下の右側を真っ直ぐ歩いて通り過ぎるつもりだった。壁に寄りかかるぐらい右側に移動したはずなのに、私はマグノリアの身体にぶつかってしまった。ぶつかったショックで目を見開き、仰向けに倒れるマグノリアの表情を凝視してしまった。鈍い音を立てて床に転がったマグノリアの顔面には、一見しただけでは無表情と見分けがつかないような、本当に微かな微笑が浮かんでいた。  バスルームに辿りついた頃にはシャワーを浴びる気がすっかり失せていた。私はシャワーで身体の汚れを落とすとか、風邪を引かないように冷えた身体を温めようといったことを考えていた訳ではなくて、ただ逃避したかっただけなのだ。セックスに逃避してマスターベーションに逃避して、それでも気分が晴れないから、今度はシャワーの快感に逃げようとしていただけなのだ。  馬鹿馬鹿しい。苦痛を和らげて楽観してしまえばまた同じことの繰り返しだ。自分が傷つかない方法を選んで中途半端な状態を維持して、また馬鹿みたいにジリジリと鬱積していくだけだ。もうこんな馬鹿げたサイクルは終わりだ、終わりにする。  私は自分の気持ちに整理をつけることばかり考えていた。マグノリアに対して感じたことをきちんとパッケージしたうえで、しかるべきタイミングに吐き出さなければ意味がないと考えていた。しかし、雑然とした状態のまま吐き出したくないからといって抑圧し続けていると、やがて自分の意思に反してひとりでに漏れ出してしまう。何かが漏れた時、一番困るのは本人ではなく、本人の最も近くに居る人物だ。隣で寝ている奴に寝小便を漏らされたら、悪意がないと分かっているだけに、怒るに怒れない。それどころか漏らした奴のことを気遣わなくてはならない。漏らした方は失態を演じたことである種の開放感を得ているのに、漏らされた方はモヤモヤした感情を抱えたまま漏らした奴の添え物にされる。マグノリアにそんな経験はさせたくない。私は失敗を繰り返すのが怖い。ミミズクの時のように、他人を巻き込んで失敗してしまうのが怖い。手段にこだわって手ぐすねを引いている場合ではない。必要なのは整合ではなく、成功だ。  私は物置から引っ張り出してきた台車に、自ら動くことのないマグノリアを乗せ、メンテナンスルームへ運ぶ。台車のハンドルが重くて思うように曲がれず、壁にぶつかって漆喰に白い傷が走った。  台車から降ろしたマグノリアの背部を開いてコードを挿し込む。  あとは目の前のキーを操作してメモリーを読み取るだけだ。そうすればマグノリアのことが全て解る。どういった出来事に対してどういった種類の感情を抱いていたかということが事細かに数値化されて表示される。49パーセントの悲しみ、49パーセントの罪悪感、2パーセントの憎悪。そういったことが明確に電子データとして表示される。そのデータを基にメモリーを取捨選択してマグノリアの苦悩を取り除いてやる。  私は目の前のキーを見つめながら、以前マグノリアの記憶を操作したことを思い出す。  あの時も記憶を操作することに抵抗を覚えたが、それは軽く押せば突破できてしまうような弱い抵抗だった。しかし、そのとき芽生えた抵抗力は、消滅することなく私の中に留まり、時間をかけて徐々に高まった。今の私はマグノリアのメモリーを覗き見ることに強い抵抗を感じている。ましてや記憶を操作するなんてことは、まるでロボトミーのような非人道的行為であると感じている。  私はマグノリアに共感を求めていたが、共感を得たいという想いの前に、私にはマグノリアを造った者としての責任がある。その責任を果たさなければならない。  腕を折り曲げて頭の高さまで上げる。勢いをつけて目の前のキーを叩こうとしたが、キーの寸前で腕の力が抜けた。  そのまま重力に導かれるようにゆっくりと指を降ろし、キーを押し込んだ。 (了) --------------------------------------------------------------------------- ※下記のURLで、音声の内容に関するアンケートを実施しております。 ※よろしければご回答ください。質問は一問だけで、二択の選択肢から選ぶ方式です。 http://vote1.fc2.com/browse/26506678/1/ ---------------------------------------------------------------------------