TOLの完成から1週間が経っていた。8月も中旬に差し掛かり、アスファルトから立ち上る熱気が、まるで針のように肌を刺す。 蝉の声が絶え間なく響き、空気は湿度を含んで重く感じられた。 ゆずとパジャマパーティーをした数日後には本番環境にも無事に載せ終わり、clauの提案する集客方法と収益を得るための戦略を発展させたえるは、初収益をとうに上げていた。 収益レポート画面に表示された8600円の数字。 えるは画面を見つめながら、胸の内で複雑な感情が渦巻いていた。 喜びと興奮、そして少しばかりの罪悪感。この収益の源が、人々の寂しさや欲望であることを、彼女は薄々感じ取っていた。 「初収益、おめでとうございます」凛音からのメッセージが届く。 えるは興奮気味に返信した。 える:「うちラブホ屋さんなんだけど、お父さんの娘でよかったって初めて思ったw」 えるの父が複数経営するラブホテルのひとつ「ホテルL」のフロントに、名刺サイズのサイトURLが記されたチラシを置いてもらった。 人恋しいお客さんからアクセスがあったのか、初の広告収益はセフレ探しのマッチングサイトから収益が発生していた。 チラシの表面には「きみがきみじゃなくなる場所 東京オナニーランド」という文字が堂々と記されていた。 凛音:「商才はお父さま譲りなのかもしれませんね」 える:「えへへ、照れる~」 えるは頬を赤らめながら、キーボードを叩く。 える:「収益、1週間で8600円なんだけど、何に使おうかな~」 からあげもお寿司も独り占め、なんて想像は一瞬ではじけた。えるの脳裏に、別の考えが浮かぶ。 える:「そうだ、凛音ちゃん! せっかくだから、一度会ってみない?」 える;「サイトのこと知ってる子がもう一人いて、その子と凛音ちゃんとでみんなでなにか食べられたらいいかな、って」 返事が来るまでの数分間、えるは緊張して画面を見つめていた。心臓の鼓動が、耳元で大きく響く。 凛音からの返事は少し遅れてきた。「ぜひ、お会いしたいです」 ★ 約束の日、都内の小さな公園。暑さをまとった風が木々を縫い、木々の間からは強い陽射しが差し込んでいる。 ツインテールの銀髪が風に揺れ、大きな瞳が不安げに辺りを見回している。 えるとゆずは立ち上がり、手を振った。 「凛音ちゃーん! こっちだよー!」 凛音は小走りで近づいてきた。その歩み方には、どこか慎重さが感じられた。 「はじめまして……鳴神凛音です」 凛音の声は、想像していたよりも柔らかく、少し震えているようだった。その姿は、まるで初めて外の世界に出てきた小動物のようだ。 「お待たせしてすみません」 「ううん、小学生のとき刷り込まれた5分前行動が度を越しちゃったみたい。凛音ちゃんも、早くきたね」一番最初に来たゆずが言う。 「いえ、お待たせしたことには変わりはないです……暑い中ですし」 「凛音ちゃん、本当に令和の子!? でも、早く会えてよかった、ってことで!」先に到着したゆずをめがけて走ってきたえるは、ハンカチで額の汗を拭う。 「……凛音ちゃん、あらためてはじめまして。昼風ゆずです。よろしくね」 「よろしくお願いします」 ーー三人の間に一瞬の沈黙が流れた。えるは少し焦った様子で話を切り出した。 「せっかくだから一緒にお昼でも食べない? 凛音ちゃん、何か食べたいものある?」 えるの提案に、凛音は少し考え、小さな声で答えた。 「…回転寿司…行ってみたい…えるさんがよく画像を上げてる、『すし丸』……」 えるとゆずは驚いた顔を見合わせた。 「えーっ! 凛音ちゃん、回転寿司、行ったことないの?」 「まさか、回らないお寿司派!?」えるが目を丸くして聞いた。 凛音は小さく首を振った。「外食自体、あまり…」 「じゃあ、今日が初めての回転寿司になるね。楽しみだね」ゆずは優しく微笑んだ。 「よし、決まり! すし丸に行こう!」えるは嬉しそうに拳を掲げ、「しゅっぱ~つ!」と高らかに号令した。 ★ 3人は公園を後にして、近くの回転寿司店「すし丸」に向かった。 店に入ると、凛音は周囲の様子を不思議そうに見回していた。 指定されたテーブル席に座る。 えると凛音は隣同士、ゆずはその向かいに座った。凛音は回るレーンを見つめている。 「凛音ちゃん、何か食べたいものある?」えるが尋ねた。 「…わさび…」凛音が小さな声で答えた。 「わさび…!? x歳にしてわさびが好きなの?」ゆずが聞いた。 凛音は首を横に振った。「いえ、食べたことがないのと、どんな味か知りたくて」 えるは目を輝かせた。「せっかくだし、チャレンジしてみる?」 コクリと頷く凛音。名前が面白いから、という理由で、彼女はえんがわを注文した。 数分後…「ご注文の品が到着しました」という自動音声のあと、えるとゆずがそれぞれ頼んだサーモン、たまご、そして凛音が注文したえんがわが特急レーンで到着した。 えるはお皿を取って、凛音の前に置いた。 「ありがとうございます」 「はーい! じゃあ、お寿司がそろったし、乾杯しよ!」とえるが誘う。 ゆずと凛音はドリンクバーで注いできたジュースを掲げた。 「それではみなさん……初収益、おめでと~!」 「おめでと~」ゆずと凛音の声が続く。 乾杯をして、ジュースを一口。待ちきれなかった喉が潤っていく。 「ぷは~、おいしい~! マッチングアプリ味!」 「……背徳の味ですね」凛音が言う。 「たしかに……」マッチングアプリ味を確かめるため、もう一口ジュースを飲むゆず。 「これからも、みんなのおかげでお寿司を食べたい……! 商売とはそういうものだから!」えるはえっへん、と胸を張る。 「よーし、乾杯もしたし! せーので、いただきます!」 「いただきます」ゆずと凛音の声が続く。 えるとゆずの所作を見ながら、凛音は少し緊張した様子でえんがわをめくってシャリにわさびをつけた。 「ドキドキするね」ゆずは凛音に言った。 「匂いからもう辛そうです」 凛音はめくったえんがわを戻し、その上から、醤油をかけた。 えるもゆずも、食べる準備ができたお寿司はそのままにして、凛音が食べる姿を見守る。 「だ、大丈夫かなあ」えるはソワソワと体を揺らした。 えんがわの寿司を口にして、慎重に咀嚼する凛音。 「っ……ううっ」 顔を真っ赤にする凛音を見て、えるとゆずは慌てた。凛音はどうすればいいかわからない様子だった。 そのとき、ゆずが突然思いついたように言った。 「あ、コーラ! コーラを飲むといいよ。辛さが中和されるんだ」 えるは驚いた顔でゆずを見た。「へぇ、そうなの?」 「うん、前にテレビで見たんだ。凛音ちゃんは…オレンジジュースか。コーラ持ってくるね!」 さっそくゆずはドリンクバーへ向かい、注いできたコーラを凛音に渡した。 凛音はぺこっとお辞儀をして、ストローが刺さったコーラのコップを受け取った。 ストローから、コーラの液体が通っていくのが見える。凛音の顔はさらに真っ赤になっていた。 「っ………うう………」 えるは凛音の背中をさする。 凛音はそこに母のような愛を思い、密かに心がざわついてしまう。 黒い奥底に、その人を失いたくない恐怖が渦巻く。 「…………………………………………」 無数のざわめきが脳内をごちゃごちゃにしていった。 自分が……自分が離れていく。 幽体離脱のように身体が離れていって、俯瞰した視線から寿司を食べる"3人"を見ようとしていた。 無意識に、助けを求めている気がした。 「…………ハハ、凛音ちゃん、ずっと顔が真っ赤だよ!」 凛音の意識が飛んでいるさなか、えるが笑いながら言った。 「どう? おさまった?」 ゆずは心配そうに凛音の様子を窺う。 けぷっ、と喉が鳴り、凛音は小さく笑った。 「…炭酸も、はじめてだったの」 凛音への愛おしさがあふれて、えるとゆずが同時に声を上げた。 「か、かわいい~」 ★ 帰り道、夕暮れの空が3人を包み込む。 今日この日、3人の間に何か特別なものが生まれたように感じた。 えるの明るさ、ゆずの優しさ、凛音の純粋さが混ざり合い、独特の雰囲気を作り出していく。 えるは嬉しそうに2人を見比べた。 「ねえ、こうしてると本当に友だちって感じがするね!」 その言葉には、新しい友情への期待と喜びが詰まっていた。 ゆずは笑顔で頷き、凛音もわずかに頬を緩めた。 「ゆずも凛音ちゃんも、仲良くなれる気がしたんだ」 えるの声には、友だちを思う気持ちと、自分の直感への自信が混ざっていた。 「えるちゃん、今日は呼んでくれてありがと。凛音ちゃん、また会おうね」ゆずが言った。 「はい、今度はコーラなしでも食べられるように練習します」 「お寿司はやっぱり、わさびの色がないとね!」えるは次もお寿司が食べられるという内なる期待に心が踊っていた。 3人の笑顔が重なる。まるで、太陽の花が咲いたようだった。 ーー私たちはえるのおかげで、この瞬間がいつか懐かしく、とても大切な思い出になることを、どこかで予感していたのかもしれない。 そう、この瞬間だけは、永遠に続くような気がしたのだった。