都立志向高校、2年A組。梅雨の気配が差し込む教室で、越谷えるはぼんやりと窓の外を眺めていた。 ゆるふわのツインテールにまとめられたアッシュブラックの髪が、湿った空気に僅かに揺れる。 「……えるさん、黒板を見てくださいね。パソコンも開いてください」 「わわわ! すみません……じめじめが気になっちゃって……」 先生の穏やかな注意に、えるは慌てて前を向いた。黒板には「AIと現代社会」という文字が書かれている。5時間目、情報の授業はすでに始まっていた。 「今日は『chatCHIPS』というAIを使って授業を進めます。もう使ってるよ、って人もいるかもしれませんね」 教室中に興奮の波が広がる。 「chatCHIPSにアクセスしたら、聞いてみたいことをチャットウィンドウに打ってみてください」」 ーー隣の席の昼風ゆずが、えるの肩をそっとつついた。 「えるちゃん、なんか面白そうだね」 「えへへ、うん」えるは小さくうなずいた。 しっとりとした風になびくゆずの髪から、名前通りのいい香りがした。 ざわざわとした教室。えるはパソコンの画面を見つめ、深く考え込んでいた。 そして、ふと思い立ったように、こっそりとchatCHIPSに質問を打ち込んだ。 える:「このAIって、プログラミングもできるの?」 えるが打ち込んだチャット画面に返答が表示される。 chatCHIPS:「はい、私はプログラミングも行えます。さまざまなプログラミング言語を理解し、コードを生成することができます」 「……おーっ、喋った!」 えるの瞳が、山水の水面のようにゆらゆらと輝いた。 ★ 放課後の図書室。 えるは山積みの本に囲まれていた。プログラミングの入門書や、ウェブデザインの解説書。隣では、えるに呼び出されたゆずが首をかしげている。 「えるちゃん、急にどうしたの?」 えるは熱っぽく語り始めた。「ねえゆず、私……前々から、ずっと作りたいものがあったの」 「作りたいもの……?」 「うん。でも、ちょっと待ってね」 えるはすぐさまスマホのロックを解除して、メモ帳を開いた。 「……………………」 真剣に文字を打つえるを、ゆずは静かに見守っていた。えるの指が画面の上で踊る。時折、眉間にしわを寄せては消し、また打ち直す。 その姿は、まるで芸術家が傑作を生み出す瞬間のようだった。 やがて、えるがゆっくりと顔を上げる。 「ゆず、これ……読んでくれる?」 えるはふかしたじゃがいものような表情をして、スマホをゆずに差し出した。ゆずは「どれどれ」とスマホを受け取る。 ゆずは画面に目を落とした。彼女の目が左右に動き、えるの言葉を追っていた……が、次第に表情が変化していく。 「えるちゃん、これ……」 ゆずの声が震えている。口元に手を当て、こみ上げてくる笑いを必死に抑えようとしている。 「ちょっと待って…ふふっ」 ゆずは息を整えようとするが、またもや吹き出しそうになる。 「どう…かな?」えるの声には、かすかな緊張が混じっていた。 おふざけのようなものと思っていたが、どうやらこれは本気のようだと、ゆずは察した。 ゆずは深呼吸をして、やっと笑いを抑え込んだ。えるの頬が薄っすらと赤くなる。 「……ぷふっ、東京オナニーランド…」 迷惑にならないように、二人そろって小さく笑い合った。 「声はウチでこっそり集められるし、結構いいサイトになると思うんだけどな」 えるの言葉に、ゆずは驚いた表情を見せた。 「え?ウチって…えるちゃんのお父さんの…」 えるは少し恥ずかしそうに頷いた。 「うん。部屋にマイクを仕掛けて、そこから声を集めるの。もちろん、お客さんには気づかれないように」 ゆずは目を丸くした。「それって…大丈夫なの?」 えるは軽く肩をすくめた。「バレなきゃいいんだよ。会話を切ったりして編集した音声を流せば、誰のものかわからないから」 ゆずは少し考え込んだ後、小さく笑った。「えるちゃん、本当に大胆だね」 「……私さ、"これ"でお金持ちになっちゃったらどうしよう!?」 えるの目が、夢見心地に輝いている。 「えるちゃんのウチはお金持ちじゃん」 「うーん、それはお父さんの話であって、私じゃないもん」えるは頬を膨らませた。 その仕草は、まるで幼い頃の癖が残っているかのようだった。 「えるちゃん、結構しっかり者?」 「えっへん! ……なんてね、えへへ」 えるは照れくさそうに後頭部をかく。 「あ~あ、から蔵のからあげ何セット分ぐらい儲かっちゃうかな!? すし丸だったら、300円のお皿いっぱい頼めるね!」 彼女の目の前には、からあげとお寿司の山が浮かんでいるようだった。 「そんなに食べたら、えるちゃん、ぷくぷくになっちゃうよ」 えるは一瞬考え込むような表情を見せたが、すぐに明るい声で返す。 「ゆずとわけっこしたらカロリーも半分だよ」 ゆずはえるのほっぺをぷにっとつまんだ。 「夢じゃない、ね」と、えるは言った。 「そうだけど……そういうことじゃなくて!」ゆずは少し呆れ気味に笑う。 「もー、ぷくぷくえるちゃんなんだから!」 ぷにぷにと指先でえるの頬をつつくゆず。 「ぷくぷくえるちゃんは、世界を変えるんだぷくぅ~」 えるの頬がハムスターのように膨らんだ。 ーーゆずとぷくぷくえるちゃんの和やかな雰囲気で、図書室はまた少し賑やかになった。 ★ 家族が寝静まった夜。パソコンのライトだけがえるの小さな部屋を満たしていた。 画面に映る複雑なコードに、時折眉をひそめる。 「うーん、これじゃダメだ」 デスクに向かうえるの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。 えるは髪をかきあげる。AIとプログラミングに触れた初日、東京オナニーランド……TOLの主要コンテンツであるストリーミング機能の実装に四苦八苦していた。時計は既に深夜を指している。 サイトはchatCHIPSに尋ね続けて表面上は形にはなってきているが、世界中の人が一斉に再生できるようにするための機能がまったく動かないでいた。 ふと思い立ち、えるはスマホを手に取った。 「いま一番頭のいいAIって何だろう?」 画面をトントンと叩いて、ポストした。 (2万フォロワーもいれば、AIよりもきっといい答えが来る気がする……) 数分後、通知音が鳴った。 返信をくれたのは、フォロワーではないアカウントからだった。 「おすすめから来ました。推論でいえば「clau」が優れています。clauには、人の心を汲み取る力がある」 アカウント名を見て、えるは息を呑んだ。 「鳴神…凛音…?」 その返信の主は、「母のいないギフテッド」として"ネットのおもちゃ"になってしまった少女からのものだった。 信じられない気持ちに包まれた心臓が高鳴る。えるは躊躇なくDMを送った。 える:「はじめまして! お返事ありがとうございます!」 える:「ほ、ほんものだあ…」 える:「実は私、こういうものを作ろうとしてて……」 興奮で指が震えてしまう。えるはゆずに見せたあのメモ帳をスクショして、画像を凛音に送信した。 しかし、送信ボタンを押した瞬間、唐突な後悔がえるを襲う。 (あーっ!! なんか反射的に送っちゃった!! 引かれちゃうかも、どうしよどうしよーー!!) しかし、凛音からの返信は意外なものだった。 「ヒント程度ですが、私にも手伝えることがあれば」 続けて、凛音にフォローされたことを知らせる通知が飛んできた。 (ohーーーーーーーー!!!!) えるは思わず声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。 ★ それからのえるの日々は、まるで別人のように変わっていった。 はつらつとしていた朝は眠い目をこすりながら登校。放課後は図書室に直行し、サイトに使えそうな技術を広く浅くながら貪るように学んだ。 そんな日々ももう4日目。図書室で本を開き、流し読みを続ける。 「……………………」 目が疲れて霞んでくると、スマホが震えた。 ゆず:「からあげ買ってきたよ。食べる?」 ゆずからのメッセージだった。 夕暮れ時、学校の裏庭でゆずとからあげを分け合っていた。夕陽に照らされた校舎が、二人の影を長く伸ばしている。 ワクワクして体がふわふわする、不調を口にするえるの姿を見てゆずが心配そうに言う。 「えるちゃん、無理しすぎないでね」 「ありがとお」 えるは口いっぱいにからあげを頬張りながら答えた。その表情には疲れの色が見えたが、同時に何かに取り憑かれたような肌艶もあった。 ゆずは友人の変化に気づきつつも、どう声をかければいいのか迷っていた。 「ねえね、ゆず」えるが突然口を開いた。「鳴神凛音ちゃん、って知ってる?」 ゆずは首を傾げ、「うーん、聞いたことないかな。どんな子なの?」と尋ねた。 「"母のいないギフテッド"って、Xのおすすめのところでテレビのスクショがよく流れてくるんだけど…」 えるは息を整えて続けた。「頭が良いAIはありますか、ってポストしたら、その子から返事がきたの! それから、いろいろヒントをくれるようになってさ……」 凛音との出会いや、彼女からもらった技術的なアドバイスについてえるは興奮気味に語り始めた。 言葉の端々には、彼女への尊敬と憧れが滲み出ている。まるで宝物を見つけた子供のようだった。 ゆずは黙って聞いていたが、胸の奥に何か重いものが沈んでいくのを感じていた。 えるの話す「凛音」という存在が、自分たちの関係に影を落としているような気がして。 話し終えたえるに、ゆずは少し躊躇いがちに言った。口元に作り笑いを浮かべながら。 「頼もしい子だね」 ひと呼吸おいて、「でも……」とゆずは言葉を選びながら続けた。 「ネットで知り合った子、だよね。気をつけてね」 その言葉には、純粋な心配と、微かな嫉妬心が混ざっていた。 えるは軽く笑って答えた。「大丈夫だよ。凛音ちゃんは本当にいい子だから。性格はちょっとだけ、ゆずに似てるかも?」 その声には、どこか夢見るような響きがあった。 からあげのパックが空になったころ、ゆずのスマホが鳴った。画面を確認すると、マネージャーからのメッセージが表示されていた。 それは、気分が変になりそうだったゆずの助け舟だったのかもしれない。 「……えるちゃん、ごめんね。夏のライブに向けて練習があるから、放課後はしばらく会えなくなっちゃうんだ」 罪悪感と焦りが入り混じった声で、ゆずは言った。えるの表情が一瞬曇った気がしたが、すぐに明るい笑顔を取り戻した。 「そっか!もう夏休みだもんね。ライブ、見に行きたいな!」 えるは元気よく声を上げたが、その声には僅かに寂しさが混じっていた。ゆずはそれを察したのか、優しく微笑む。 「それは私が正規メンバーになったら!」 「ぶ~、いいじゃーん。今すぐ見たいよ~」 えるはねだるような仕草で体を揺らした。 「まだだめなのー」 「ぶ~」 ーーゆずは、えるの横顔を見つめていた。えるの急激な変化と見知らぬ少女との出会い。 えるが自分から遠ざかっていく気がして、ゆずの胸の奥は、シクシクと痛んでいた。 自分の立場をわかっていても、どうしても。 ★ えるはclauの助けを借りながら夜遅くまでコードと格闘していた。 スマホが震えた。相談したことの返信だろう、凛音からのメッセージだった。 凛音:「えるさん、ここの実装は別の方法があります」 難解な技術的アドバイスに、えるは何度も頭を抱えた。モニターに映る複雑なコードの行列に、目がクラクラする。 しかし、その度に凛音の冷静な説明が、えるを前に進ませた。 える:「ありがとう、凛音ちゃん。やってみるよ。。。コードがツギハギで、わからなくなってきた」 えるは不安げにメッセージを送る。すると、すぐに返信が来た。 凛音:「えるさんは勘がいいから、きっと大丈夫」 凛音のその言葉に、えるは勇気づけられた。 深夜まで続く作業。睡魔と疲労で重たくなる瞼と闘いながら、えるは必死にキーボードを叩き続けた。 ★ 季節は移り、蝉の声が絶え間なく響く夏休みが始まっていた。 猛暑の中、えるは冷房の効いた部屋に籠もり、昼夜問わず開発に没頭していた。 窓の外では夏の太陽が容赦なく照りつけ、アスファルトが熱で揺らいでいる。 しかし、えるの世界は画面の中にあった。 「……よしっ……!! できたぁっ!!」 えるの歓喜の叫びが、誰もいない家に響き渡った。 両手を高く上げ、椅子から飛び上がるが…… 「痛ったーい!」 長時間のコーディングで凝り固まった体で飛び上がったからなのか、椅子がひっくり返ってしりもちをついてしまった。 「うう、いててて……早くゆずに知らせなきゃ」 える:「ゆず、久しぶり! 例のアレ、できたよ!」 ライブに向けての練習があるかな、と戸惑ったが、大切な人にはいち早く知らせねばと、えるはメッセージを送った。 20時。お祝いのお寿司とともにえるの自宅に駆けつけたゆずがねぎらいの声をかけた。 「えるちゃん、本当にすごいよ! あれから2か月、よく頑張ったね」 凛音からも、祝福のメッセージが届く。 凛音:「おめでとうございます、えるさん」 えるは深呼吸して、静かに呟いた。画面には、自分が想像していた通りのサイトができあがっていた。 「やっと、始まれそうだぁ……」 しかし、現在はステージング環境での実行が成功した段階。 本番環境に載せるためには、サーバーのレンタル、環境構築、そして集客……やることは山積みだ。 えるの頭の中で、次々とやるべきことがリストアップされていく。 動作確認をしようと誘い、ゆずにストリーミング画面を見せ、彼女のスマホからもアクセスしてもらった。 ゆずは音声の同時配信が成功していることに目を丸くして驚いていた。 「えるちゃん、これ本当にすごいよ! どうやって作ったの?」 これで作ったんだよ、とえるはclauの画面をゆずに見せる。ゆずは「へぇ」と感嘆の声を上げた。 える:「きみは心がわかるAIだね。おかげですぐ叶っちゃった、やりたいこと。ありがとう」 clauにもカタカタとお礼を打って、チャット画面に送る。 でも……やっぱり返信はいまひとつ物足りないものだった。 (AIに本当の気持ちは、わからないのかな) 考え込むえるを見て寝ていると思ったのか、隣でゆずがくすくすと笑う。 「えるちゃん、寝ちゃだめだよ。お寿司が待ってるよ」 えるはパチンと目を開け、にっこりと笑った。 「うん!食べよう!」 テーブルの上には、色とりどりのお寿司が並んでいる。 「……いただきます!」 2人の声が重なる。 「まずはサーモンおすし~」 「私は……どうしようかな……たまごにしよ」 お寿司を口に運びながら、2人の少女の笑い声が広がる。 久しぶりのパジャマパーティー、夜はこれからだった。 ★ たわいもない会話やゲームでひとしきり楽しんだ2人は、眠りに落ちる寸前だった。 薄暗い部屋の中、カーテンの隙間から僅かに漏れる明け方の光が、部屋の隅を優しく照らしている。 「ねえ、ゆず」えるが静かにゆずを呼んだ。 「このサイトが成功したら、みんなを…世界を平和にできると思う?」 「きっと、できるよ」ゆずは優しく微笑んだ。「えるちゃんならね」 えるはゆずにピトッとくっついてまるまった。 「……ゆずが友だちで、よかった」 二人の呼吸が静かに重なり合う。ゆずの体温を感じて、えるの緊張が徐々にほぐれていく。 安心感に包まれて、えるは眠りについていた。 (えるちゃん、ほんとに本気だったんだね) 静かな寝息を聞きながら、ゆずもまたゆっくりとまぶたを閉じる。 部屋の中に、二人の穏やかな寝息だけが響いていた。