・side 弦 「私、この絵好きだなー……」  画廊と言っても結構な面積の会場に、閲覧客もそこそこいる喧騒のなか。軽やかなその声は僕の耳にすっと届いた。  一体誰だろう。  普段なら自分の描いた絵のギャラリーなんて出向きもしない。スポンサーがどうしてもとマネージャーが泣いて言うから不承不承顔を出しただけ。  人々が僕の絵を見て何を感じ、称賛し羨望しようがどうでもいい。僕の作品から何を受け取って勝手に厭忌の情を抱く人間がどれ程湧こうが毛ほどの興味すらない。  必要なのは己の内側と、その世界を描くための右手とキャンバスだけ。  なのに、今。僕はその声の主を探していた。  彼女がいたのは、今回のギャラリー企画の第一スポンサーである証券会社の団体グループ。  僕の描いた特大のキャンバスを前に立ち止まっている後ろ姿が、妙に目に焼き付いた。  普段なら、自分から人に近付くなんてするはずないのに。気付けば彼女の側まで寄っていて。 「この絵のイチョウの葉の繊維?っていうのかな、繊細なタッチなのに後ろが透けて見えるところとか凄く綺麗で……」 「……そう言って貰えると嬉しいな。ありがとう」  彼女がしきりに語り掛ける女性は同じ商社に勤める人だろうか。隣に向かって絵について語る彼女の言葉がくすぐったい程に胸に届いて。  こぼれるように謝意を告げれば、彼女は勢いよく此方に振り向いた。君の驚きで見開いた瞳を見て、やはり僕の直感は正しかったと思ったんだ。 「えっ?!あっ!高崎弦さんですか!?あっ!あのっ!恥ずかしながら初めて貴方の絵を直接拝見しまして……!一目でファンになりました!」  頬を赤く染めながら、今度は僕に向かって一生懸命に話す彼女の姿が、何だかとても可愛らしく輝いて見える。  嬉しさがこみ上げてふわりと口角が自然に上がった。 いつも何かあれば笑ってその場をやり過ごそうとする僕の悪癖だけれど、今回ばかりは大いに役立った。この癖がなかったら、きっと僕は彼女につられて赤く茹でダコのような無様な顔を晒した事だろう。  少しでも彼女の目に映る僕の姿が格好よくあればいいと思ったのは初めての事で。 「目の前でファンになってくれるなんて、嬉しい」  もっと君と話がしたくて、彼女の歩調に合わせてギャラリーを共に巡った。  人に合わせて行動するなんて久しくなかった行為が、なんだかとてもくすぐったくて。足が浮わついて地に着いた感触がしなかったのは、きっとこのこそばゆさのせいだ。  ふふっと笑いが漏れる。  側で歩く彼女だけが気付いて「楽しいですか?」と笑顔で問い掛けるものだから「うん、とっても」と返事をした。  もっと君の隣を歩きたい。彼女と出会ってからの短時間に山ほどの『初めて』を体験して尚、まだ足りないと思った。  それからの君は、ファンとしての一線を引きつつもその線の内側ギリギリまで攻めて寄ってくるから、彼女と関係を続けたい僕にとって心地の良いものでしかなくて。  彼女の瞳に灯る熱が、ファンとまた少し違った色味を帯びるようになった時も、僕には手に取るように分かった。  だから、これは彼女と僕の関係性をより強固にするための布石。 「じゃあ、僕と付き合ってみる?」  卑怯だってわかってる。彼女から返ってくる答えが決まっている上で問い掛けるなんて。  でも知りたかったんだ。僕と付き合う事になったら君はどんな表情を見せてくれるのか、僕はどんな感情にまみれるのか。  驚愕と歓喜で頭のなかがぐちゃぐちゃになったのか、パニックになりながらポロポロと涙を落として喜ぶ彼女の姿がまた愛おしくて。絵描きとファンの関係から、恋人同士になったのを良いことに彼女を思い切り抱き締める。  ああ、彼女を抱き締めるとこんなにも満たされるなんて知らなかった。  きっとこの温かさを、人は幸せと呼ぶのだろうな。  ――付き合って半年程経った頃だろうか。  いつも明るく振る舞う彼女が初めて見せる暗い表情に、柄にもなく動揺した覚えがある。 「私は弦くんの本心が知りたいんです」  涙まじりに呟く言葉。  上辺だけじゃなくて貴方の思っている事が知りたい。  鼻をすすりながら言われたその言葉に、目から鱗が落ちるようだった。僕の本心を知りたいだって?この子は僕の外面や僕の描いた絵じゃなくて、僕自身を、僕の思考を知りたいと思ってくれているの?  普段は僕の洞察力が優れているのか、彼女が分かりやすい顔をしているせいか。どちらにせよ今まで彼女の希望で言わずとも分かるものは、全て先回りして叶えてきた。  僕の力が及ばぬ時は、彼女が落ち込まないように代替案を用意し誘導と気付かれぬように話を進めて事態を丸く収める。  幾度となく行ってきたそれは、『彼女のため』という健全で献身的な思考によるものではない。  巡り巡って、良くも悪くも自分の感情が大きく動くのが嫌だったから出来る限り場の主導権を自分で握っていただけに過ぎない。結果がわかっているなら、無駄に心が疲れることもない。  そうやって過ごしてきた。  それが最低限他人と接して暮らして行く上で、一番軋轢を生まない方法だったから。  そうやってこの世界で生きてきた。  それが人間関係構築に異常を抱えた僕の、唯一の生き方だったから。  なのに。  目の前にいる女の子は、僕の本心が知りたいと言う。  恋人と言っても全くの他人。ましてや世間に馴染めぬ自身の性質の異常さを自覚している僕だから、彼女が側にいても何も期待しないのが当たり前だったのに。  涙を浮かべた瞳で真っ直ぐに見つめられて、足が床に縫い付けられたように動けなくなる。  君は僕を知ろうと見つめてくれるのか。  彼女が僕を理解すべく努力し向き合ってくれるのだと――期待を、してもいいのだろうか。  ほんの少しだけ目の奥が熱くなって。誤魔化すようにまた微笑む。 「ご、めんね。…ありがとう」  言葉が上手く紡げない。今更ながら口下手な自分が嫌になる。これでは彼女に僕の本心など伝わらないではないか。そんな心配もしたけれど。  それからは出来る限り自分の意図を彼女へ伝わるように努力する日々。それは大変だけど、とてもとても、あたたかなもので。  些細な行き違いから喧嘩した日もあったけど、それすら全てが愛おしい。  君が側にいる。この事実がどれほど素晴らしいことか。  絵の資料を撮りに。作品のインスピレーションを得るために。何度も何度も、彼女は僕の手を引いて輝かしい外の世界へと連れ出してくれる。  彼女と共にいろんな所へ出掛ける事が増えたのも、苦に感じる事など一度もなかった。  彼女が隣にいれば、彼女が笑顔であれば、僕の世界は彩度が上がる。  嗚呼、なんて幸せなのだろう。  この幸せな日々がずっとずっと、いつまでも続くのだと信じて疑わなかった。  あの4月1日が訪れるまでは。  ――愛しい君、大好きなんだ。愛しているんだ。だからお願い。ずっとずっと、僕の側にいて。