・side ヒロイン  ヒールで痛む足に鞭打って、全速力で家に帰る。手に抱えているのは、先ほど会社近くの書店で購入した美術雑誌が二冊入った紙袋。同じ雑誌が、二冊。  一分一秒すら惜しくて慌ててドアノブに鍵を差し込み、扉を開けてするりと入り込むと流れるように内鍵に手を掛けた。  ガチャン。  外界から断たれた音に安堵を抱きつつ脱いだヒールを投げ捨てて、部屋の床面積を我が物顔で占領するお気に入りのビーズクッションにダイブする。  クッションに優しく受け止められただけでは冷めやらぬ興奮に、両足をバタつかせてしまうのは許して欲しい。  だってだってだって! 「弦くんの特集だぁ……!」  紙袋から取り出した雑誌の表紙には彼の顔写真こそないものの、大きく『新進気鋭!若き天才画家・高崎弦独占インタビュー』の文字があった。  同じ雑誌を二冊買ったのは保存用と鑑賞用だ。  布教用の購入も考えたが、自分なんかが布教する必要など無いくらい彼の知名度は高い。だったら顔も知らない何処かの弦くんファンに渡りますようにと、二冊までに購入を止めた。  保存用の方は傷つけないようにそっとローテーブルに置いて、鑑賞用の雑誌をペラペラと捲り目当てのページを探し出す。  インタビュー記事には、弦くんのスタイルの良さが大変良くわかる全身のワンショットが一枚目を飾り、表紙と同様の見出しが調和の取れたフォントで配置されていた。  写真は、白い背景の中で木製の丸椅子に座る弦くんの姿。それだけ。飾りっ毛のないシンプルな構図にも関わらず彼の姿に目を奪われる。  そこに居るだけで華があり、無造作に座って指を組む様はモデルかと見間違うほど。実際に本物の弦くんを見ていても、この写真が彼の魅力を最大限に引き出しているとわかる。  さすが美術雑誌、美しいものを撮るのも彩るのも上手いなぁ。  変なところに感心しながら次のページを捲ると今度は弦くんの描いた作品の写真が数点と、顔アップ&バストアップ写真。紙面に載った控えめに微笑む弦くんの姿に、思わずぎゅむっと両目を瞑ってしまった。  推しの顔 嗚呼顔が良い 顔が良い  心からの叫びを一句したためて深呼吸を一つ、二つ、三つ。冷静を取り戻したら、意を決して両目を見開く。変わらず雑誌の一面を飾る弦くんの姿に、今度はにへらっと笑って溶けそうになってしまった。 「弦くん格好いいなぁ~……」  時々、彼と付き合っているのは私の都合の良い妄想ではないかと現実を疑う時がある。今もそう。  みんなに注目され、雑誌の取材を受けるような存在。CMや特集番組で彼の絵がテレビに流れる時だってある。  彼の作品は世界的にも注目され始めていて、何なら顔も良くてメディア向き。でも私生活は一切明かさないミステリアスな人物と噂される高崎弦。  かたや、彼の描いた作品に一目惚れしてその絵を描く弦くん自身を好きになっただけの私。  ……私は。彼の、ただの一ファンに過ぎない。  しおしおと萎んで折れてしまいそうになる心を奮起するように、強く首を横に振る。いけない!弱気ダメ絶対!  現実を見て!わー目の前に弦くんの写真がある!!格好良い!!それだけでテンション上がる!気分上げてこー!!  滅多にない弦くんのインタビュー記事だ、私の知らない彼の新しい一面が知れたら尚嬉しい!良い事しかないな!有り難く読ませて頂きます!いざ拝読ッ! ・ ・ ・  それでは簡単に自己紹介をお願いします。 ――高崎弦。画家です。  ……そ、それだけですか? ――え?はい。自己紹介、ですよね?名前と職業があれば十分では?  そ、そうですよね!(汗)ではこれから、いくつか質問させて頂きます。今まで多くの作品を手掛けていますが、絵を描き始めたのはいつ頃からですか? ――……物心ついた時には何かしら描いてたと思います。画家として活動を始めたのは高校卒業してからです。  カメラで撮ったかのような緻密で繊細なタッチと、鮮やかで独特な色調のコントラストが美しいと大変評価の高い高崎さんの作品ですが、描くコツやこだわっているポイントなどはありますか? ――……ものを良く見て描く事です。  絵のモチーフに選ばれるもので何か共通点などはありますか? ――……、いえ、特にないと思います。  絵が完成した時、達成感など一番に思うことは何ですか? ――……別に。完成したなと思います。  は、はは……(笑)では、もしも画家以外になったとしたら、何をしてると思いますか? ――……死んでると思います。  な、なかなか物騒ですね!(笑)では、高崎さんにとって大事なものはなんですか? ――キャンパスと絵具と右手です。  まさに画家の鑑と言うべき回答ですね!では高崎さんにとって、絵とはなんですか? ――自分の世界を表現する手段です。  今年の夏に個展が開かれる予定とお聞きしました。何か目玉になるようなものはありますか? ――特には……。見たい人が見に来てくれればと思います。  えっ!?えー、えーっと、あっ!情報によりますと、今回の個展では特大のキャンパスで描かれた絵画や未公開の作品を20点以上展示するとのこと!  また過去作をまとめた画集や、人気の高い絵画を特殊プリントした栞、クリアファイル、その他グッズの販売なども予定しているそうです!楽しみですね!  この度はお忙しいなか、ありがとうございました! ――ありがとうございました。 ・ ・ ・  ………。  な、中々に塩対応だったなー……。  取材現場の温度がグングンと下がっていくのが文字情報だけでも読み取れてしまい、思わず身震いしてしまった。  ま、まぁ、初対面の人が苦手って弦くんも言ってたし、これはこれで彼なりに頑張った方だろうし、と居もしない当人に謎のフォローをしつつ、弦くんに想いを馳せる。 「絵が完成した時、かぁ……」  脳裏に過るのは無造作に髪の毛を一つにまとめ、身体のあちこちに絵の具がついても頓着しない、真剣な眼差しで絵を描き続ける弦くんの姿。  次回作の題材やテーマを探す時は勿論、実際にキャンパスへ筆を走らせるとその集中力は凄まじいもので、食事どころか睡眠すらそっちのけで絵を描く事に没頭する。  それ程の熱量を持って取り組むのに、いざ完成して筆を置いた瞬間その情熱はどこへやら、すっと煙のように消えてしまうのだ。  まるで描ききるまでが人生だと言わんばかりに。  彼にとって完成した作品に価値はないのか、無造作に床に転がされて躓いたり踏み抜きそうになって悲鳴を上げたのは一度や二度の話ではない。  彼の関心はいつでも始まる前と描いている間だけだ。  興味を持つ、持たないが顕著に出るのは何も絵に限った事ではなく。  絵のモチーフも、食べ物も、場所も、人も。  今まで好んでいたものが、ある時ふっと不要になっていたりする。彼の中で何かが終わってしまったら、余程の事がない限り見向きもされない。  ……いつか私も、描き終えた絵画のように彼の関心が向けられなくなる時が来るのだろうか。そんな考えが頭の中を掠める。  そしてそれが途轍もなく恐ろしくて、想像しただけで背筋が凍ったように動けなくなった。  彼の人生の一時だけでも自分が交われた事を喜ぶべきなのに、それで十分過ぎると満足すべき事なのに。きっと私は「離れたくない」とみっともなく泣いて彼に縋ってしまう。それが怖い。 「キャンパスと絵具と右手……」  大事なものはなんですか。  そう尋ねられて間髪なく答えただろう弦くんの回答。そこに私はいない。当然のことなのに、何故かとても苦しい。  のろのろと雑誌をローテーブルに置いて、クッションの上で膝を抱えて丸くなる。  彼は芸術家だ。自分の世界、それを表現するのは呼吸と同じ。彼は一人で生きていける人だから。  私のような人間が彼の身の回りを手助けしても、それが『私』である必要はない。彼は、一人で立っていられる人だから。  もしかしたらいつか来るかもしれないその日。  彼から別れを切り出されたら笑顔で「今までありがとう」と見送れるように。  最後の一線だけは、絶対に踏み込んじゃ駄目。 「……大好きだよ、弦くん」  涙まじりの告白は、小さく自室の空気に溶けた。