──数年前の、ある日の朝のこと。 私は、いつも朝一番に教会に来ては、神父の私と共に花壇の手入れをするあの娘に、こんな事を言った事があった。 「貴方に少しお願いがあるのですが、いいかな」 そう言って私が困ったように眉を下げてみせると、明るい瞳をした彼女はスコップを持ったまま、嬉しそうに立ち上がった。 「はい、神父様。何でしょうか?」 そして私は、花壇の隅にいる小さな緑の生き物を指さして言った。生き物は芋虫という名で、何らかの葉を身に纏わせながら、煉瓦の横を這っていた。 「…それを、殺してはくれませんか?」 * その『お願い』を聞いた彼女は、一瞬驚いた顔をした後、手に持っていたスコップをぎゅっと握った様に見えた。そして、私の指さした芋虫をチラリと見、戸惑ったような顔をして言った。 「…このままじゃ、ダメなんですか?」 そう言う彼女の瞳には、『殺したくない』といった思いが透けて見えていた。 なので私は、彼女のそんな思いに気付いていないフリをして、あくまで申し訳なさそうに告げた。 「うん、そうだね…虫は、花の成長を妨げるから、取り除かないとダメなんです。だから、私の方で処理したいのは山々だけれども、朝の殺生は禁じられているんです…」 別にそんな規約は私が信仰している宗教には無いし、虫を殺そうが殺すまいが、別段何も言われることはない。 彼女が嫌だと言えば、後で私自身がスコップで叩き潰して処理すればいいだけであって、彼女にこの様な願いをしてみたのは、ただの気まぐれと、そして、実験のようなものだった。 ──私を昔から慕ってくれている、小さくて可愛い、私のお気に入りの少女。 そんな可憐な少女に、私が世界で一番嫌っている、害虫の処理をさせる。 その時私は、彼女を嫌わないでいられるだろうか、と。 * 彼女は私の言葉を聞いて、悲しそうな顔をした。 恐らく彼女の心は今、私の願いを叶えないといけないという使命と、自分の良心とで、荒々しく波立っているのだろう。 「そうなんですか…」 「はい。だから、貴方にこの虫の処理を頼みたいんです…これは今、貴方にしか頼めない事なんですよ」 「…でも、虫さんが可哀想」 「そうですね…しかし、このままでは貴方の好きな花も悪くなってしまうんです。だから、ここでこの虫は殺さなければいけない」 そう言って私は片足を地面に着け、彼女の目をしっかりと見据えた。 すると彼女は、一瞬気まずそうな顔をした後、分かりました、と言って、再び胸の前に携えていたスコップを握った。 すると彼女は私に背を向け──その可愛らしい真赤なスコップで、芋虫を真っ二つに潰した。 そして彼女はその場で小さな手を合わせ、小さく震える声で、「神父様も、一緒に祈ってください」と言ったのだった。 * どんな生き物をも大切にし、慈しむ彼女の良心が、私への崇拝心に負けた瞬間。 その時の衝撃を思い出すと、今でも不意に不昂ってしまいそうになる。 ……結局の所人間という物は、自分が心酔する者に対しては決して逆らえず、その身を粉にして屈服せざるを得ないのだ。 ……自分の利益と快楽を享受する上では、自分の良心の呵責や正しい倫理等は、無視される物なのだ。 そう思うと、人間とは何と愚かな生き物であろうかと思うが──それでも、私への信仰心に忠実に従い、涙ながらに芋虫を潰したこの少女の揺るぎない思いは、私に十分伝わった。 「ありがとうございます、貴方がいてくれたおかげで、助かりました」 そう言って彼女の頭を優しく撫でると、彼女はこくりと軽く頷いた。 そして私は、子供特有の暖かい体温に心地良さを感じながら、次にするべき事を考えていた。 母親と私を比べさせるのも良い、 はたまた友人と私を比べさせるのも良い、 そしていつかは、神と私を比べさせるのも、また良いかもしれない……果たして最後、彼女は私をどこまで赦してくれるのだろうか。 * 彼女が来る。 日曜日に来る。 朝一番早くに、楽しそうに教会に来る。 そして私は今週も、目ざとく何かを見付け、彼女に言ってみるのだ。 「貴方に少しお願いがあるですが」、と。